空港に姿を現したアルフレッド・ハンは、煙の如く消えてしまった。
その情報は、スーパーで警備の仕事に就いているニックの耳にも入っていた。
実は、スーパーのオーナーは元警官だった為、多くの警察関係者が利用している。
警察を辞めたニックも、彼の誘いでこの店に転職した。
その関係で、警察の動向は容易に手に入れることが出来たのである。
ニックは今日の仕事を終えると、長年愛用しているジープ・グランドチェロキーZJに乗り込み、帰路に就いた。
絶えず、警察の尾行が付いてくる。
ニックは平気であった。
「嫌な役目をさせてしまったな。」
寧ろ、ニックはFBIと警察上層部にこき使われる若い警官達に同情していた。
何時もの様に、見張りの警官がいるガソリンスタンドを通り、道路を曲がって舗装されていないでこぼこ道を走ると、自宅のトレーラーハウスに到着した。
トレーラーハウスの前には、見慣れないスポーツタイプの自転車が置かれていた。
「あの野郎。」
舌打ちをした。
トレーラーハウスのドアを開けると、愛犬ロボがお迎えの挨拶をした。
「お帰り。」
ジョーが床に座って荷物整理をしていた。
彼の口元は、山羊鬚からハリウッディアンと呼ばれる口髭に戻っていた。
ジョーの肩まである黒髪は半乾きで、ここでシャワーを浴びた形跡が見られた。
「警察とブライアンに追われて、ここに隠れていた。」
「勝手にシャワーを使うな。」
ニックはあきれた表情をした。
「掃除しといたし、タオルは自前のを使ったから、勘弁してよ。もう少ししたら、去るから。これ、詫びの印。」
ジョーは、側に置いているバックパックから紙袋を出して、ニックに渡した。
ニックは不機嫌な顔付きのまま紙袋を受け取った。
「どうして、アルフレッド・ハンを戻らせた。」
ニックの灰色の眼がジョーを鋭く見据えた。
その様子に、ロボは不安な表情を見せ、さっきまで尻尾を左右に力強く振っていたのを止め、垂らしてしまった。
「ロボ、安心しろよ。お前のパパは、怒っていない。」
ジョーはロボに微笑むと、話を続けた。
「彼を戻らせたのは、ジュリアンとブライアンが、彼が病院の襲撃事件の犯人とは別人と思い始めたからだ。それじゃまずいと思い、彼を人前、つまり空港に出したのさ。しかし、まさか非番の警官に直ぐに見付かるとは思わなかったよ。慌てて逃げた。」
「『慌ててだ』と?逃げ道は既に計画していただろうが。昨日まで、空港のトイレは改修工事が行われていた。その関係で、工事関係者の出入りがあった。お前は、そこに忍び込み、空港内の地図を手に入れたんだろ。でなかったら、警察に見付かっても、あれ程素早く逃げ切れる訳が無い。」
ニックは、不安がるロボを落ち着けさせようと、頭を優しく撫でた。
「まあね。一応確認だけはしたさ。忍歌にもあるから、『忍びにはゆく事よりも退口(のきぐち)を 大事にするぞ習なりける』と。彼がブライアン達の目の前に現れたから、別人説は当分消えると思う。」
「そうだな。しかし、アルフレッド・ハンが戻ったと知って、シェインの動きは止まるな。」
「それは無いよ。明後日に引っ越しが決まったんだ。装備は更に厳重になるだろうけど、中止はない。」
「ジュリアンが帰国するからか?」
「それもあるし、ジュリアンの手下共が、口入れ屋を探っている。殺し屋を集めていたのがそろそろばれそうなんだ。シェインはそれの発覚前に、移動させる気でいる。」
ニックは考え込んだ。
「引っ越しを狙うか。」
「いや、まだ先だ。警察内にいるシェインの仲間がどれ位いるのかまだ掴めていない。」
「秘密結社のメンバー以外にいるのか。」
「ああ。シェインが密かに集めた若い警官達が十数名いる。そいつら全員分からないとな。」
『時間が無いが、今動いてはあの人に災いが及ぶ。』
ニックは内心焦っていた。
ニックの本心を知らないジョーからすれば、ニックはとても慎重に行動しているように見えた。
「確か、あの子、コリンを調べた一匹狼の刑事を締め上げてみようか。」
「あの刑事は、シェインの仲間だが、下っ端にすぎん。仲間全員知っているのは、シェインのみだ。俺が色々と調べたが、4名しかまだ分かっていない。新体制になって、皆余計に口が堅くなった。ジョー、シェインの周りを探ってくれ。」
「金は?この間は、無いとか言っていたけど。」
「この前教えてやった秘密結社の口座はどうした?」
「チェックしたことはしたけど、今はルドルフが管理しているからね。迂闊に引き落とせないんだ。それに、その口座の金は、別の件での依頼料じゃなかったっけ。」
「そうだったな。しばし待て。ようやく金が貯まってきたものの、警察の監視があるから、俺も下ろせない状態だ。」
「お互い、金に不自由しているね。」
ジョーは肩を揺らして笑った。
ニックもつられて笑い出した。
2人の様子を見たロボは、ようやく顔を緩ませた。
=====
コリンは、アパートで泥棒の資料をベットの上で、胡座をかいて読んでいた。
シャワーから上がったばかりなので、バスタオルを首にかけたままであった。
その資料には、ハルダテの押し花を送った老婦人のことが書かれていた。
老婦人は実在する人物で、押し花の腕はプロ級であり、しばしば慈善団体のバザーに自分の作品を提供していた。
盗聴器が仕掛けられていたハルダテの押し花は、コリンが入院した時期にバザーに出品しており、警察の捜査で、その押し花を買ったのが、中年男性と判明した。
警察がバザーの関係者に中年男性の特徴を聞き出した所、シェインにそっくりであった。
尚、差出人住所と電話番号はデタラメで、コリンとデイビットが掛けた先は、偶然にも全く関係の無い女性の家に当たり、当時は留守電が故障していて、女性が見ず知らずの2人の声を聞かなかったのは不幸中の幸いであった。
コリンは、怒りで腸が煮えくりかえる思いであった。
「俺を誘拐して、病院送りにしやがった上に、老婦人の押し花に盗聴器を仕込んで送り込んでくるとは、何て卑怯な野郎なんだ。」
コリンは他の資料も眼を通した。
そこには、アパートに入った泥棒の経歴が書かれていた。
今日の午前中に、ジョンが見付けた1本の赤毛を警察に提出した。
鑑識に回すと、間もなく窃盗で何度も捕まっている男のデータが出てきた。
警察がその男を捜索したが、自宅には暫く帰っていないことが判明した。
現在も警察はその男の行方を追っている。
資料の中には、空港内のアルフレッド・ハンの行動も記されていた。
デイビットがシャワーを終えて出てきた。
「資料を読んでいるのか。」
「ああ。シェインは俺の手で殺してやりたい。」
「怒りに身を任せるな、コリン。イサオが悲しむぞ。連中はFBIと警察に突き出すだけだ。資料を読んでいると、又怒りが沸くぞ。もう寝よう。」
デイビットはベットに入った。
コリンは資料をベットの脇に置くと、電気を消して床に就いた。
3分も経たない内に、コリンはデイビットに甘えた声を出した。
「どうして今夜は俺を求めないの。」
珍しく、コリンから誘ってきた。
「何時もより寝るのが遅い時間になっただろう。それに、アレの事もあるしな。」
デイビットはコリンを抱き寄せて頬を優しく撫でながら、壁をチラッと見た。
壁には、ハルダテの押し花が納められている額縁が以前の場所に掛けられていた。
ジョンの提案で、盗聴器は額縁の中に戻してあった。
『幸運にも、今は受信機が作動していない。つまり、まだ秘密結社には盗聴器が発見されたことは知られていない可能性が高い。それを利用する。』
ジョンのお手製で、盗聴器の電波を受信する器械が額縁の隣に設置された。
この盗聴器は受信機から遠隔操作されて作動する。
FBIに気付かれないように、コリンがいた病室の会話を盗聴する為に作られたものなので、盗聴器から発する電波は特殊で微弱なものであった。
それ故に、アパートの中の声を盗聴するには、近くで受信機を操作しないと聞き取れない。
そこをジョンは利用し、秘密結社の人間が受信機を操作すれば、ジョンの器械が反応し、ブライアンやFBI、それにアパートの脇の道路で見張っている警察に通報され、逮捕される仕組みを作ってくれたのだ。
コリンは部屋着の上からデイビットの胸を悪戯し始めた。
「くすぐったいぞ。」
デイビットが笑った。
「器械はなんも反応しない。大丈夫だね。ジョンとブライアンが言っていた通りだ。連中が欲しているのは、情報であって、俺達のプライバシーじゃない。これで心置きなくできる。」
コリンは妖艶な笑みをデイビットにすると、シャツを脱いだ。
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アパートの脇の道路に、一台のジャガーが止まっていた。
運転席には、秘密結社に雇われている殺し屋・エドワードが座っていた。
手には受信機を持っていた。
操作するかどうか迷っていた。
彼は17年前のコリンの写真を見てから、コリンに懸想している。
彼の気持ちを察した山本が、シェインに命じられてコリンの部屋を盗聴した時、こっそりとエドワードに録音したICレコーダーを渡してくれたことがあった。
録音されたコリンの艶のある声を聞いてから、エドワードは余計に慕情が高まっていた。
明後日、今迄いたアジトを行き払って新しい場所へ移る。
移動が完了すれば、いよいよブライアンへの襲撃に備えなければならない。
自分達がブライアンに挑む時、コリンは彼を守る為に必ず行動を起こす。
もしもコリンが自分に銃を向けるなら、殺し屋として反撃する覚悟は出来ている。
今夜、こっそりとジャガーを街に走らせたのは、明後日から始まる移動の下見であった。
この街に来て初めて自分だけの時間が出来た。
一人で車を運転しているので、様々な感情が浮かんでしまい、理性では駄目とは分かっているものの、無性にコリンの声をもう一度聞きたくなったのである。
突然、運転席の窓をノックする音が聞こえ、ハッとして見た。
山本であった。
「助手席のロックを開けてくれ。見張りの警官が気付き始めたぞ。」
エドワードは慌てて山本を助手席に乗せると、ジャガーを動かした。
アパートを通り過ぎる瞬間、覆面パトカーから鋭い視線を感じた。
「助かった。どうやって来た。」
何時もの冷静な口調で言ったが、エドワードの額から一筋の汗が流れ落ちていた。
「小型二輪さ。警察に見付からないように隠してきた。ついさっき、アジトへ寄ったんだ。そうしたら、シェインから、コリンの部屋に仕掛けてあった盗聴器が発見されたことを聞いたんだ。その場に君がいないから、もしかしてと思って、急いで飛んで来たんだ。」
「発見されたのか。」
「その上、ブライアンの仲間が罠を仕掛けたそうだ。もしも俺達が受信機を作動させたら、直ぐに警察が飛んで来て、俺達を逮捕させる様に手筈が整っているとも言っていた。」
「フーッ、迂闊だった。シェインには内緒にしてくれ。」
「勿論だ。俺の責任でもあるし。コリンの声を届けたのは俺だからね。それに俺達は、よそ者同志じゃないか。ブライアンの件が片づくまで仲良くしようよ。」
「俺はプロの殺し屋だ。仲良しは出来ない。」
「残念、コリンの写真を持ってきたのにな。」
エドワードは、ジャガーを道路脇に止めた。
「どこで手に入れた。」
「病院だ。色んなコネを駆使して、手に入れたんだ。」
山本は、5枚の写真をエドワードに見せた。
リハビリ中のコリンの写真で、日に日に顔の怪我が良くなり、以前の左右均等の顔付きになっていくのが分かった。
「何が狙いだ。」
エドワードは写真に手を触れず、山本に問うた。
『流石はベテランの殺し屋だ』と山本は思った。
「狙いって程じゃないよ。シェインの動きを知りたいだけだ。あの人、怖いところがあるからさ。もしかして、ブライアンの件が済んだら、俺達よそ者を消すんじゃないかって、不安なんだ。」
「それには及ばん。私はシェインの側にいるから良く分かる。あの人もプロだ。我々を粗略に扱わない。」
「でも、盗聴器が発見されたことは、側近の君に直ぐには言わなかったじゃないか。」
「どういう意味だ。」
「発見されたのは、今朝と聞いたからだよ。」
エドワードの目付が変わった。
「シェインは、俺達がここにいることを知っているのか。」
「いいや、知らない。シェインは君が引っ越しルートをチェックしに行ってると思っている。俺は引っ越し先であるスワンスン夫人の別邸の最終確認をしてくると言って、アジトを出てきた。」
「それでは夫人の別邸へお前を送ってから、念入りに引っ越しルートをチェックしてくるか。」
エドワードは山本から写真を受け取ると、ジャケットの胸ポケットにしまい、ジャガーを再び走らせた。