コリンは耳を澄ませた。
初めは何も聞こえなかった。
時間が経つにつれ、ゆっくりとこちらへ向かってくる足音が徐々に聞こえてきた。
廊下に立っていた見張りの警官が、足音の主に声を掛けた。
「ビリーか。あれ?これから、コリンが君の家に伺うんじゃなかったのかい?」
「いや、予定が急に変更になってね。僕から彼に会うことにしたんだ。」
紛れもなく、ビリーの声であった。
皆は驚きの余り、声が出なかった。
ビリーは病室をノックすると、申し訳なさそうな表情をして入ってきた。
「やあ。連絡しないで来てしまって、びっくりさせて済まない。妻の体調が悪くなってね。」
ビリーの目の下には隈があり、頬も少しこけ、疲れている印象を皆に与えた。
彼は青白い手で、コリンに高級ミネラルウォーターを渡した。
「お詫びの印だよ。急だったから、近くのコンビニで買ってきたんだ。退院おめでとう。」
「有難う。君達のお陰で、ここまでこれたよ。」
コリンは笑顔でビリーにハグをした。
「それじゃ。今度、きちんと時間を作るからね。」
ビリーは落ち着く暇も無く、病室を出ようとした。
「俺達も病室を出よう。既に退院の手続きを済ませてあるから、一緒に地下駐車場へ行こうよ。」
コリンの提案に、ビリーは「そうしよう。」と頷いた。
コリンは、廊下ですれ違う見張りの警官、医師、看護師、そして医療スタッフ達にお礼を言って、歩いて行き、イサオ達と一緒にエレベーターで地下へ降りていった。
「ビリー、明日から職場復帰なんだってね。良かったね。」
コリンが声を掛けた。
「有難う。君や同僚も喜んでくれているし、素直に自分も喜ばないとね。」
ビリーは、はにかんだ。
「何かひっかかるのか?」
デイビットが聞いた。
「FBIの監視付きで仕事をすることになっているからね。とても気が重いんだ。」
「そうか。そりゃ、辛いな。」
デイビットは知らない振りをした。
『ビリーも知っているのか。大っぴらにFBIの監視付きで、2人の警官を現場復帰させるのは、かえって悪い結果になりはしないだろうか。』
ブライアンは懸念した。
「これから、ニックに会いに行くのかい?」
ビリーが話をコリンに振った。
「うん。昼間なら時間が空いているからとの返事だったからね。今、ニックはスーパーの警備員をしているそうだね。」
「そうらしいね。僕も君を助けてから、ニックに会っていないんだ。警察を辞めたのも、つい最近知った位だ。彼に会ったら、宜しくと伝えて欲しいんだ。」
「分かった。伝えるよ。」
コリンとビリーが会話している内に、エレベーターは地下に着いた。
「ビリー、車は?」
「手前に止めてある、紺色のピックアップトラックが僕のさ。トヨタ・タンドラだよ。君達の・・・。」
ビリーが立ち止まった。
目の前に、中古のシボレー・トラバースが止まっていたのだ。
その白色の車から、赤ん坊を抱っこしながらも、背が高く、険しい顔付きをしとした女性が出てきた。
ビリーの妻・ステファニーであった。
息子を産んだばかりなのに、体格はかなり引き締まっている。
彼女も夫と同じく金髪碧眼の持ち主で、その碧い目は鋭く、まるで氷のように冷たく光っていた。
長い金髪を後ろに縛っているため、長い耳たぶが目立っていた。
『怖いわ。』
サラは、ステファニーの刺すような視線に恐怖を感じた。
「大丈夫だよ。」
イサオがそっとサラの手を握った。
一同は、ビリーの言った『妻の体調不良』の真意を読み取った。
「彼女は警官だが、前職は陸軍で、アフガンでの従軍経験の持ち主だ。」
後ろに立っていたブライアンが、コリンに耳打ちした。
「道理で。地獄を味わった目をしている。」
コリンの左横にいたデイビットが小声で言った。
2人の会話を聞き、第二次世界大戦末期に生まれた猛は、幼少期に見た復員兵を思い出した。
コリンの右横にいたビリーは、一瞬固まっていたが、妻・ステファニーに歩み寄った。
「確認しにきたのか?言った通りだろ。退院するコリンに会いに来たんだよ。」
「だって、あなたが今朝急に言うからよ。又、隠し事をしていると思うのは当然でしょ。」
赤ん坊の背中をトントンさせながら、ステファニーが反論した。
『今回の事は、ビリーの一存で決めたのか。だから不機嫌なんだ。』
コリンはビリーを見た。
ビリーは苛立っていた。
「隠し事?秘密結社に脅されたことか。何度も言っているじゃ無いか。君達を守る為だったと。いい加減にしてくれよ。君がそんな態度だから、予定を変更したんだ。」
「連中はまだ野放しよ。FBIに話したあなたに仕返しするかも知れないでしょ。1人で出歩いていると、連中に格好の機会を与えることになるわ。私がとても心配するは分かるでしょ。」
鋭い視線を緩ませることなく話す妻に、ビリーは反論出来なかった。
口調は穏やかでも、緊迫したビリー夫婦のやりとりに、皆どうしていいのか迷った。
ビリーは咄嗟に息子を妻から取り上げ、コリンの方へ戻った。
「僕の息子だよ。初めての子供で、『ジュニア』と名付けたんだ。碧い目が似てるだろ。」
ジュニアはぐずることもなく、父親似の瞳でコリンをじっと見た。
「とても似ているね。可愛い。今、何ヶ月?」
コリンは努めて明るく振る舞った。
「生後2ヶ月を超えたばかりだよ。」
ビリーは、ジュニアを側にいたデイビット達にも披露した。
皆、表情を緩ませ、「初めまして。」と挨拶した。
ジュニアは人見知りせず、ニッコと笑顔をみせた。
その様子をステファニーは、睨み付ける様な視線で見ながら歩み寄ってきた。
コリンは、彼女に微笑んで挨拶をした。
「初めまして。コリン・マイケルズです。ご存じかと思いますが、ビリーは俺の命の恩人です。心から感謝しています。」
ステファニーは「どうも。」と無愛想の返事をして、コリンと握手を交わした。
「耳の形が貴女に似ていますね。」
イサオが笑顔で声を掛けると、ステファニーは僅かばかりに表情を柔らかくさせた。
「母子揃って、耳たぶが長いですね。東洋では『福耳』と呼ばれているんですよ。お金持ちになるとの言い伝えがあるのです。」
コリンが話を広げると、「有難う。」と彼女は笑顔をようやく見せた。
ステファニーはコリンの肩を軽く叩くと、夫・テリーのもとへ行き、ジュニアを抱っこした。
「それでは、皆さん、失礼します。」
別れの挨拶をして、シボレー・トラバースに乗り込んだ。
「リハビリ頑張ってね。又、会おう。」
ビリーもコリンの肩をポンッと軽く叩いて挨拶をし、トヨタ・タンドラに乗ると、走らせた。
その後を追うように、ステファニーの車も出発した。
「きつい奥さんね。私、緊張しちゃった。」
サラはフーッと深呼吸をした。
「しょうがないよ、サラ。彼女は初めての子供を妊娠中に、ご主人が秘密結社に脅迫されていたんだから。不安定になるのは無理もない。」
イサオがサラを慰めた。
「いや、違う。彼女は、まだ戦場体験を引き摺っている。」
猛が口を挟んだ。
「PTSD(心的外傷後ストレス障害)ですか。あの目付きなら、あり得ますね。」
ブライアンが猛の意見に同意した。
デイビットも大きく頷いた。
「息子さんの話になると、少し笑ったから、希望はあるよ。優しい旦那さんもいるし、元気になると良いな。」
コリンは先程の会話を思い出していた。
それから間もなく、コリンとデイビットはレンタカーのスバル・フォレスターで病院を発った。
イサオ達は手を振って見送ってくれた。
「このフォレスター手を加えていない?」
助手席に乗っているコリンは疑問に思った。
ドアがかなり重く感じたからだ。
「実は、この車はブライアンの警備会社から借りたものだ。ステファニーの言ったように、いつ襲撃されるか分からない。その為、防衛設備が搭載されているこの車を選んだ。それに、安定性も強化してもらった。頭を怪我しているコリンの負担も殆どかからない。」
運転しているデイビットは、優しい目でコリンに語った。
「大いに助かるよ。」
コリンは、頭に巻かれている包帯に手をやった。
まだ頭部の傷は完全に癒えていない。
これから2人は、マイアミ市街のはずれに住んでいるニックのトレーラーハウスへ向かうのだ。
時間的にはさほど遠くはないのだが、2ヶ月も入院生活を送ったせいか、コリンは車に乗っているのが長く感じた。
市街を抜け、少し走ると、ガソリンスタンドが見え、車が3台止まっていた。
「奥に止まっているシルバーのフォード・トラースを見たか?」
デイビットがコリンに声を掛けた。
「うん。見た。乗っていた若者は私服のせいか10代に見えるけど、あの目付きは警官だね。」
ニックにも監視が付いていることを、2人は一瞬で見抜いた。
やがて、フォレスターは道路から脇道へ曲がった。
舗装されいない道を走るので、少しの振動でもコリンの頭に響いた。
トレーラーハウスの前に、2人の男性が立ち話をしていた。
ニックとマックスであった。
フォレスターは近くに止まり、コリンは助手席から降りた。
「マックスも来てくれたんだ。」
「コリン、退院おめでとう。今日はたまたま非番でね。君が来ると聞いて、ここで待っていたんだよ。」
コリンとマックスはハグをした。
隣にいたニックは、少しだけ笑った。
「大分、顔の腫れは引いたな。後は頭の傷だけか。」
「助けてくれて感謝するよ。無事に退院できたよ。」
コリンはニックともハグをした。
夏でも背広を着ている為か、体は痩せているようには見せない。
ハグしても分からなかった。
しかし、頬がが2ヶ月前よりも痩けているように見えた。
「また痩せたね。新しい仕事大変なの?確か、スーパーの警備だったよね?」
「又、人の心配か?コリンを助けた2ヶ月前と変わらんよ。」
ニックは苦笑いをした。
「コリン、大丈夫だよ。以前よりも、ニックの顔色は良くなった。」
マックスが笑った。
「コリン、そんなことよりも、ベトナム人の事は気にしないのか?」
コリンとデイビットは驚いた。
数時間前に、ブライアンから極秘情報として聞いたばかりだったからだ。
「何の話だ?」
マックスが尋ねた。
「明日、署のお偉いさんから話があるよ。」
ニックははぐらかした。
「誰から聞いた。」
デイビットは険しい顔付きになった。
『もしかして・・・。』
コリンは、ニックの親友・ジュリアンが頭に浮かんだ。
「マックスが来る前にFBIが来たんだ。写真を見せて、『この男を知っているか?』とね。俺が知らないと答えると、今度は『この事は誰にも言うな。』と睨まれた。」
「何だあー。FBIは極秘と言っていたのに。」
コリンはがっくと肩の力を落とした。
デイビットも拍子抜けした。
「FBIが新しい情報を掴んだのか?!」
マックスが目をきょろきょろさせた。
「そんなもんだ。FBIとブライアンと警察の連携は緩んでいるぞ。そうこうしている内に、秘密結社に狙われるぞ。」
ニックが忠告した。
マックスが気合いを入れ直した。
「限りなく黒に近いルドルフが、明日から職場復帰するのに、我々がこのていたらくじゃ、いかんな。」
ガタッ。
4人の後ろにあるトレーラーハウスから、大きな音がした。