「いいえ、イサオから何も聞いていません。ニックという名の知り合いがいたとも、聞いたことがありません。イサオとニックは、シアトルで会っていたのですか?」
マックス刑事の質問に、コリンは心が揺さぶられた。
コリンの隣に座っていたデイビットも、揺れ動いていた。
「ニックによれば、17年前に、殺人事件の容疑者を追っかけて、シアトルまで来た。その時に、イサオと何回か事件のことを聞いただけだとね。だけど、上司は、ニックがイサオの事を知っていならがら、黙って担当をしていたと怒り出してね。昨夜、ニックと私は、この事件の担当から外された。ニックは、自宅謹慎。私は、書類仕事に回された。」
ニック刑事は、肩をすくめた。
バーで、ニックが『しょげている。』と言ったのは、この事だったのかと、コリンは思った。
「事件で会っただけでしょう?何も自宅謹慎までとは。」
「それがな。シアトルで、2人に助けて貰ったとの目撃証言が出て来てね。この事から、上司は、2人は只の顔見知りでは無いと解釈したんだ。」
「助けて貰った?」
「17年前、シアトルで不良少年同士の喧嘩があった。1人の少年が、相手から頭を銃で撃たれた。その時、彼を助けたのが、イサオとニックなんだ。イサオが救命処置を行い、ニックが病院まで運んだ。2人の迅速な行為により、少年は一命を取り留めた。その時、イサオとニックは、名前も告げず、病院から去ったそうだ。だが、側にいた少年の兄が、2人のことをよく覚えていてね。」
「少年を助けただけで、2人は知り合いとは限りませんよ。」
「そうなんだ。ニックによれば、カフェで、イサオといた。イサオに、殺人事件の証言を頼んでいた。イサオは、これを拒否したらしい。その時に、目の前の道で、喧嘩が起きたそうだ。だけど、手際の良さから、上司はニックとイサオは友達ではと睨んでいる。私から見たら、只の偶然だと思うけどね。」
「俺も、偶然と思います。」
「イサオは看護師だし、ニックは刑事だ。訓練を積んだ2人が、そつなく人助けするのは、当たり前だ。その事件から、ニックはイサオと会っていないと言っている。上司は、ニックの言葉を信じようとしない。イサオに証言を頼みたいけど、まだそこまで回復していないしね。困ったもんだよ。」
「どうして、シアトルの出来事が、上司に伝わったんだろう。」
「タレこみがあった。恐らく、シアトルの金持ちの嫌がらせかもな。」
「金持ち?」
コリンは背筋が凍った。
「金持ちは、ニックが17年前に調べていた殺人事件の容疑者さ。兄貴の遺産目当てで、人を雇い、このマイアミに住む妹を殺害した容疑だった。」
コリンとデイビットに衝撃が走った。
あの時、金持ちの邸宅に来た刑事が、ニックだったとは。
コリンの記憶にある刑事とは、繋がらない。
昨夜、彼はその事について一言も言わなかった。
『俺の過去を調べ抜いているニックが、何故その件に関して言わなかったのだろうか。』
コリンは疑問に感じた。
「金持ちは、このマイアミにもコネがあって、上層部に色々と圧力を掛け来てね。当時は、私は別の相棒と、別の事件を担当していたが、傍から見ても、奴のやり方は目に余った。圧力をものともせず、ニックは、金持ちをかなりの所まで追い詰めていた。だが、署長の命令で、捜査は打ち切りとなり、事件は迷宮入りとなった。金持ちは、ニックの事をかなり恨んでいると噂で聞いていた。奴ならやるだろう。」
「それは無い。金持ちは10年前に死んだ。」
デイビットが口を挟んだ。
コリンの告白を聞いて、怒りに駆られたデイビットは、シアトルの金持ちのことを調べていた。
『あんな薄汚い野郎は、きっと他にも犯罪に手を染めている筈だ。それを突詰めて、一生刑務所に放り込んでやる。』
デイビットは、激しい復讐心に燃えていた。
しかし間もなく、金持ちが、10年前の秋に突然死していた事実に当たった。
公式には、死亡原因は発表さえていないが、デイビットが調べた所、愛人との別れ話のもつれで刺されてから、痛み止めの薬や麻薬に依存する様になり、最後は麻薬の大量摂取で亡くなった。
その為か、新聞の死亡欄は、金持ちにふさわしくない位小さなスペースであった。
「知らなかった。死んだのか。」
コリンは、ポカンとした。
「コリン、そいつのこと知っているのか?」
マックス刑事が聞いた。
「いや、名前だけだよ。シアトルでは、有名人だったからね。」
コリンは慌てた。
「じゃあ、ニックを恨んでいて、シアトルに住んでいる奴は誰なのかな?」
「シアトル在中とは限らないと思うよ。上司は?随分と、ニックのこと嫌っているみたいだね。」
「そうかもな。コリンの言う通り、ニックと上司は折り合いが悪くてな。一回、ニックが、上司の鼻を明かしたことがあってね。それを根に持っていて、ニックの事を色々と調べていたかもな。うちの上司は、ねちっこい所があるんだ。彼なら、やりかねないことだ。彼は、昔のニックを知らない。そのせいか、裏でニックの事を、“化け物”と呼んでいたし。」
「酷いな。ニックは、優しくて、ロマンチックな人間なのに。」
「ニックのこと知っているのか?」
「昨夜、飲んだんだ。たまたま行ったバーが、ニックの行きつけだったんだ。その時、色んな話をした。彼が犬を引き取った事や、密かに想っていた人の話をしてくれた。情のある人だと思ったよ。マックス刑事の事を、一番の相棒と言っていたよ。」
「嬉しいね。それにしても、あの人見知りのニックが、君に随分と話したねえ。珍しい。」
「オーナーのアーサーさんも、同じ事を言っていた。昨夜は、俺がニックをかなり飲ませたからね。そのせいかも。」
「ニックは酒に弱いと聞いていたが、本当だったんだな。今度、飲ませるか。シアトルでなにかあったのかを、吐かせるか。シアトルに行ってから、ニックは変ったんだ。」
「何が変ったの?」
「先ずは、性格だ。昔は、正義感溢れて、明るくて、真面目な男だったよ。時には、隠れて昔のワルの仲間の手を借りることはあったけどね。それが、シアトルに行ってから、無表情になり、事件解決の為なら、堂々とワルと協力する様になった。正義感も更に強くなって、容疑者を平気で殴るようになった。」
「3年前に、連続殺人鬼を逮捕する時も、ボコボコにしたそうだね。」
「そうなんだ。あの時は、クビ寸前だったよ。連続殺人鬼には、裁判で『あいつの方が化け物。』と言われるしね。でも、ニックは平然としていたな。それからだ、ニックに不名誉な仇名がついたのは。」
マックス刑事は、溜め息をついた。
「ニックの外見が大きく変ったのは、シアトルから戻って6ヶ月後だ。別の事件に巻き込まれて、怪我を負ったんだ。4ヵ月後には復職したけども、ブルネットの髪が、白髪になり、顔も老けた。40代の男には、見えなくなった。」
「50代かと思ったよ。」
「違うんだ。私よりも5歳年下だよ。私の方が、50代なんだ。昔を知る人は、今のニックを見て同一人物とは思えない。ヨーロッパに行っている妹すら、見間違える位だからな。」
「そんなに変ったのか・・・。」
デイビットは、ブライアンが昔会った刑事は、もしかしてニック刑事かと思った。
「私は、ニックと組んで5年になる。一緒に仕事をしていて、ニックの昔の部分、明るくて、感情豊かな部分が、まだ残っていると、思う様になったんだ。」
「相棒だから、良く見えるのですね。」
「それもある。私の考えが決定的になったのは、3年前に悪徳弁護士が射殺された事件だ。その悪徳弁護士が飼っていたシェパードの雑種が、ロボなんだ。彼には、身内がいたが、犬アレルギーでね。それで、ニックがロボを引き取ったんだ。引き取る時に、私が保証人となった。ロボが、ニックにとても懐いている所を見れば分かるよ。犬は、人をちゃんと見ているからね。」
ニックは腕時計を見た。
「おっと、長い時間を取らせたね。質問に答えてくれて、有難う。」
マックスが席を立とうとした。
「そうだ。デイビット、君はオーストリアの出身か?」
「違います。北欧系の移民の子で、アメリカ生まれです。どうして、私がオーストリア出身と?」
「いやね、ニックが、君の発音が、オーストリア出身の元刑事のと非常に似ているというんだ。ニックは、とても聴力があるんだけど、私は北欧系と思っていたよ。君の返事を聞いて、ニックが間違っていることが証明されたぞ。事件と関係ない事を聞いてしまったね。済まない。」
マックス刑事はアパートを出た。
コリンが、ドアを閉め、鍵を掛け、後ろを振り返ると、デイビットは考え込んでいた。
「どうしたの?もしかして、ニック刑事のこと?」
コリンはデイビットが、何時もの様に嫉妬しているかと思った。
昨夜、コリンは偶然とはいえ、ニック刑事と朝まで呑んでしまったからだ。
その事は、既に話してあったが、さっきも呑んだ時の話をしてしまい、デイビットは不機嫌になったのではと、不安になった。
だが、デイビットは、今回は嫉妬しなかった。
コリンから、オーナーのアーサーとも一緒に語り合っていたと聞いていたし、何よりもニック刑事はその気がないと思っていた。
それよりも、ニック刑事の鋭さに、肝を潰していたのだ。
「ニックは、やはり化け物かもな。訛りにはかなり注意を払っていたが、俺の出身地を当てたのは、奴だけだ。」