渋谷区の高級住宅街に着いた。
周りを高い塀に囲まれた、松井節子の邸宅はバウハウスの影響を受けているせいか、無駄のないシンプルな造りであった。
殺害現場となった邸宅は、警察の捜査が入ったが、今は清掃され、元の状態に戻っている。
小笠原文武は、1階の廊下で殺されていた。
大理石の床は綺麗になっていたが、当時は血の海であった。
コリンは床を触ると、空港で買った小さい花束を供えた。
第一発見者は、隣の家からの通報で駆けつけた警官であった。
セキュリティーが止められており、警官は門を押したら容易く開いたので、不審に思って中に入った。
そこで、玄関口で殺害された運転手、廊下で倒れていた小笠原文武を発見した。
玄関口で運転手が殺害された時に、物音に気が付いた小笠原文武が、1階の書斎から出てきた所を撃たれたらしい。
運転手は体中を拳銃で撃たれ、小笠原文武は額を打ち抜かれていた。
サプレッサー付きの拳銃が凶器ではと、警察は見ている。
住宅街の中なので、犯人は静かに行動していたが、隣家の犬が異変を察知し吠え続け、事件の数十分後には、警察に通報が入った。
おかしなことに、小笠原は犯人に抵抗した様子が見られなかったという。
恐らくは、抵抗する間もなく撃たれたと、警察は見ている。
コリンは、サンディエゴのホテルで小笠原文武と飲み明かしたことがあった。
その時に、彼が話してくれた言葉が頭に浮かんだ。
「学生時代にインドに長期滞在したんだ。道を歩いていた時に、突然 自分が、道、自然、地球、太陽、宇宙、あらゆるものと、一体となる体験をしたんだ。神秘体験だったと思っている。それを体験してから、僕は恐れが無くなった。死に対しても、終わりでは無く、始まりの一歩だと思えるようになったんだ。だから、死も怖く無くなったんだ。」
殺される時も、怖くはなかったのか。
分からない世界であった。
コリンは、1階の他の部屋や2階を見て回った。
警察は物取りの犯行と見ているのは、書斎にあったスイス製の高級懐中時計がなくなっているからである。
松井節子が小笠原文武に送ったものであった。
事件当夜、セキュリティーが止められたが、邸宅内の機械は故障しておらず、警察は頭を悩ませている。
可能性としては、共犯者が警備会社に潜り、防犯システムを止めたことだ。
警察と警備会社が調べたが、怪しい人物が侵入した痕跡が見付からなかった。
松井節子の説明を聞いて、コリンはカナダでの出来事を思い出した。
あの時は、外からセキュリティーを止めた。
『もしかすると、これは・・・。』
考え込んだコリンに、松井節子が声を掛けた。
高藤美術館へ行く時間と。
2人は家を出て、歩いて高藤美術館へ向かった。
5分位の場所に、こじんまりとした2階立ての建物が見えた。
白壁の鉄筋コンクリートの建物に、瓦屋根が載せられていた。
松井節子が、この美術館は帝冠様式の建物だと教えてくれた。
時間が5時過ぎだったので、関係者しかいなかった。
日本画を収集している美術館で、現在は江戸絵画を展示していた。
そこには目もくれず、真っ直ぐに1階の奥の収納庫へ行った。
1階の奥にある収納庫に、六歌仙の掛け軸は収められていたのだ。
小笠原文武と運転手を殺した犯人は、この中から小野小町と在原業平の掛け軸を盗んだ。
犯人の不可解な行動に、誰も首を傾げた。
その時であった。
「節子さん。ここにいらしたのね。」
松井節子の養母・松井鞠子が収納庫に入って来た。
87歳だが、足取りがしっかりして、ふくよかな頬、切れ長の目、緑の長い黒髪を束ね、気品を漂わせている。
二藍色のワンピースを着ていたが、掛け軸の小野小町にそっくりであった。
コリンと松井鞠子は、挨拶を交わした。
松井鞠子は、おっとりとした口調で話す。
それを聞いていると、コリンは貴族と話している気分になり、緊張してしまった。
彼女の自宅は、美術館の隣にあるので、事件後はセキュリティーはかなり厳重になった。
松井鞠子の後ろには、私服ガードマンが立っていた。
彼女も今回の事件で参っており、特に夫の孝彦は寝込んでしまっている。
松井鞠子は、コリンに謝罪した。
「お母様が大事にしていた掛け軸が、盗難に遭うなんて。今回のことを、何と言ってお詫びすればいいのかしら。」
「いえ、貴女は悪くありません。悪いのは犯人です。」
コリンは松井鞠子の手を取った。
とても柔らかかった。
少し話した後、松井鞠子は「節子を支えて下さい。宜しくお願い致します。」と深々と頭を下げて、自宅へ戻った。
「やあねえ、お母様。私は大丈夫なのに。コリン、気にしなくていいわよ。」
松井節子は不満そうに言った。
コリンは、松井鞠子の言葉を重く感じていた。
松井鞠子は、娘に災難が来ることを察しているのでは。
収納庫で暫く話をした後、2人は美術館を出た。
今、松井節子は邸宅を離れ、甥の高藤輝が所有する近くの高層マンションに、一時住まいを移している。
部屋が5LDKあるので、コリンを泊めてくれると言う。
持ち主の高藤輝の許可も貰っていると聞いたので、初来日のコリンにとって大いに助かった。
マンションへ行くついでに、この界隈を案内すると言って、松井節子はコリンを連れて繁華街を歩いた。
高級住宅街から歩いて直ぐの所に、人が溢れて、華やかなネオンがある風景に、コリンはとても興味を持った。
彼女が住む高層マンションは、駅の反対側にあった。
駅へ向かうと、人だかりが出来ていた。
駅前の広場に1台の選挙カーが止まり、お立ち台で何人かの政治家が演説をしていた。
彼らは、先の選挙で野党に転落した保守系の政党に属していた。
「あら、有名な議員さん達がいるわ。」
人ごみを掻き分けならがら、松井節子はコリンに彼らの説明をした。
コリンは、疲れ切った風貌の年配議員達には余り興味がなかったが、1人だけ活力のある若手議員に関心を持った。
若手議員の演説は、力強いが、簡素な言葉遣いで、人々を惹き付けていた。
難しい日本語は分からないコリンだったが、周囲の熱気を感じ取っていた。
「今、マイクを持っている、あの若い人は?」
「若いって言っても、50近いのよ。彼は嶋村涼一という政治家。党の副幹事長をしている実力者よ。ハンサムだから、結構メディアに出ているわ。」
一瞬だけ、コリンと嶋村涼一議員の目が合った。
目力がある人だと、コリンは思った。