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東京の高藤美術館の特別展示室で、理事長の松井鞠子は六歌仙の掛け軸をうっとりと眺めていた。

特別展示室は普段は閉めており、今も彼女一人であった。

87歳の高齢にも関わらず、背筋をピンと伸ばし、染めているが豊かな黒髪を後ろにまとめ、桜色のドレスを着た彼女は、今は亡き長兄・高藤太朗の声を耳にした。

「よくやったね、鞠子。」


4月を迎えた。


コリン・マイケルズの両親、スティーブンと美賀子が、住み慣れたシアトルから、父の故郷であるロスへ引越しをした。

コリンと東部の大学生をしているケビンも、引越しを手伝った。

認知症専門医のクリニックから、歩いて5分も掛からないマンションへ引越しをした。

脳血管性認知症を患っている父にとって、ベストな場所であった。

ロスには、父の姉のアンや友人の多くが住んでおり、孤独では無かった。

マンションの住人の中には、同じ年代の夫婦も住んでおり、両親が下見をしている内に仲良くなっていた。

これなら安心できると、コリンは思った。


引越しが落ち着くと、母はロスの観光会社でパートタイムで働き始め、その間の父は、訪問介護士の援助を受けた。

徐々に、新生活に馴染む様になっていった。


コリンも、ロスから車で約2時間のサンディエゴで、建設会社の作業員として働いていた。

交流が活発な両親とは違い、コリンは仕事場と安アパートの往復の毎日であった。

週末はなるべく、両親のもとを訪問していた。

裏社会にいた6年間の埋め合わせを、するようであった。

この生活は2ヶ月が過ぎ、穏やかな毎日が過ぎていった。


コリンは、この充実した生活が限りあると思っていた。

撃たれてから約6ヶ月にもなるが、この1日たりともリチャード達のことは忘れてはいなかった。

FBIの目を絶えず感じており、何も動けない状態が続いていた。

ほとぼりが冷めた頃に、自分達を撃った“赤いシャツで蛇の目のような男”を探し出して、仇を討つ。

コリンの決意は揺るぎはなかった。


初夏の香りがした6月の終わり頃。

高藤美術館の学芸員・小笠原文武から、メールが届いた。

文面は、『7月の半ばに仕事でアメリカへ行くので、会いたい。日時は、君に合わすよ。とても大切な話があるんだ。』といった内容であった。

予定が入っていない週末を選び、コリンはその日の内に返信した。


大切な話とは何だろう。

会って話したいとは、余程のことである。

iBookの前で、コリンは暫く考え込んだ。

ふと、思う存分酒が飲めるのもこれが最後かもと思った。


それから数日後、出勤途中でふとキオスクに目をやった。

新聞の一面に、『陸軍のネットワークに不法侵入したハッカー集団逮捕。被害は海・空軍にも及ぶ。逮捕者は5名にのぼり、1人は逃亡中。』の文字が踊っていた。

コリンは、逃亡犯・ジェローム・ゲイの名前に目を奪われ、1部を買った。


ジェローム・ゲイには2度会ったことがあった。

コリンは、リチャードのグループにいた、ハッカーのフレッドの使いで、厳重に封をされた小包を、マンハッタンのハーレムのアパートまで運んだことがあった。

20代前半で、シャイな性格だったと覚えている。

約1年ぶりにジェロームの顔を新聞で見たが、あの童顔は変わらなかった。

その彼が、全米から追われている身になることが信じられなかった。


コリンの勘が動いた。

何かが起きると。


その日の仕事が終わり、帰宅して玄関ドアを開けると、床に1枚の紙が落ちていた。

ドアを閉め、その紙を拾って読むと息を呑んだ。

「助けてほしい。君だけが頼りなんだ。今、ここの住所にいる。ジェローム」

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