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金髪の男は、コリンの写真を見た。

「こいつ、生きていたのか。」


「ああ、そうだ。FBIが死んだことにしているがね。リチャードが殺されたとき、あいつも生死の境を彷徨っていたらしい。あいつ、FBIに色々と下呂を吐いたらしい。そのお陰で、何にも罪に問われず、シャバに出てるよ。」

初老の男は、コリンの写真を指して言った。


金髪の男は、6年前のことを思い出した。

仕事で、銃を頼むことがあり、昔なじみであるリチャードのグループを訪ねたことがあった。

その時に、下働きとしていたコリンと初めて会った。

坊主頭で端正な顔立ちをしたコリンは、金髪の男に深い印象を与えた。

特に、コリンの大きな茶色い瞳が、金髪の男を惹き付けた。


それから、4~5回リチャードに会いに行き、コリンとは簡単な挨拶を交わしただけであった。

それでも、あどけなかったコリンが、リチャードによって、どんどん逞しい青年に変化していくのを目の当たりにして、金髪の男はコリンに淡い思いを抱くようになった。

コリンはリチャードの恋人と知っていたので、淡いままでいた。


4ヶ月前に、リチャードが他のメンバーと共に殺されたことを聞き、金髪の男は昔なじみの死を悼み、コリンにもう会えないと思うと悲しくなった。


それがどうして、コリンは自分の依頼人・小笠原文武の関係者として出てきたのか。

金髪の男は、資料を再び読む。


時代は、江戸時代末期に遡る。

西国の大名のお抱え絵師が、六歌仙の蒔絵を製作した。

六歌仙とは、平安時代に活躍した歌人で、僧正偏昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大伴黒主、を指す。

やがて、動乱の幕末が過ぎ、明治時代に入ると、大名からの支援が無くなり、生活に困ったお抱え絵師は、蒔絵を6つに切り、6幅の掛け軸を製作し、金持ちや美術商に売った。


幾つかの手を経て、僧正偏昭の掛け軸は、1935(昭和10)年高藤正次郎の長男・太朗に渡った。

太朗は、この掛け軸を非常に気に入り、残りの5幅を手に入れようとした。

しかし、時は戦争の時代、探すのは困難を極めた。

残りが見付からないまま、太朗は1940(昭和15)年に、結核で30歳の短い生涯を終えた。


終戦後、息子の意志を受け継いだ高藤正次郎は、日本画を収集する高藤美術館を造り、掛け軸の探索を行い、2幅の掛け軸(在原業平、僧喜撰)を見つけ出した。

高藤正次郎が1965(昭和40)年に亡くなると、末娘の松井鞠子が高藤美術館の館長となり、兄と父の思いを受け継いだ。

なかなか、残りが見付からなかった。

21世紀に入り、松井鞠子は館長を退き、後任には姪で養女の松井節子が館長に就任した。

5年前に、フランスの古美術商が文屋康秀の掛け軸を持っていることを知り、フランスへ渡った松井節子は、長い交渉を経て、ようやく手に入れることが出来た。


その時に、松井節子の手伝いをしたのが、当時ヨーロッパでバイヤーをしていた小笠原文武であった。

約80年にもわたる高藤家の執念に興味を抱いた小笠原文武は、高藤美術館で働くようになり、残りの2幅の掛け軸を探すようになった。

彼のお陰で、残りはすぐに見付かった。

5幅目(大伴黒主)は、昨年彼が地方議員から手に入れた。


最後の掛け軸1幅(小野小町)を、コリンの母・美賀子が持っていることを嗅ぎ付けると、小笠原文武は彼女と交渉を始め、今月その掛け軸を買い取ることが決まった。


金髪の男は、高藤家の執念より、コリンの生い立ちに興味を持った。

資料を読むうちに、抑えていた思いが、沸々と湧いてきた。


「来週末、小笠原は絵の件で渡米するんで、もう一度会うことになってるんだ。お前さんも来るかい?」

「ああ、手筈を整えてくれ。」

金髪の男は、初老の男に頼んだ。

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