新元号『令和』だって!
と、いうことで
もうご存知の方もおられること思いますが、
改めて、
新横浜ベルズが終わります。
終わらないけど終わります。
1997年5月4日に産声を上げたベルズ。
私はピスキッズとして、
その18日(だったのか)に
ワンマンライブでオープニングウイークを飾ってやったわけです。
酸欠で倒れる人が出るほどの超満パイにしてやりましたよ!フンフンっ!
誰が今はこんな有様やねん!ひとりひとり握手したろかっ!
※ベルズホームページより引用。
まだマンスリーフライヤーもなかったため、かろうじて残る手書きのスケジュールのみ。
それからはや22年。
早っ!
あの日生まれた子は2年前に成人式終えてるで!
浪人してなければ大学卒業だよ、おい!
昨夜も少しだけ語らせてもらったが、
ほぼほぼ森羅万象全ての物、事が変わっていきます。
当たり前にね。
それは仕方のないことでもあるけど、
そうでしょ?
そりゃ変わんなきゃ!
人は成長するからね。
その先に老いが待ってるけどね。
昨年60歳を迎えたコヤマンことデニム宏一氏が
何を思いこうなったかは先日の『こやまつり』に来てくださった
本当に心やさしき奇特な方々はたっぷり聞かされたと思いますが、
若かりし頃のデニム宏一氏。
「私たちは自由に気ままにファッショナブルの生きたいと考えてます」というABABのコピーとTAPPIのコントラスト。
ピスキッズがまだアマチュアバンドだった頃、
初めてのツアーで訪れた横浜本牧で、
この口の達者なデッカイハツラツ兄ちゃんと出会ったのは1994年。
当時元町にあった白木屋で
『何?プロになりたいの?絶対やめた方がいいよ!アハアハアハ!』といわれ、
翌年その忠告を無視し上京。
なんでかピスキッズのマネージャーを押し付けられたデニム氏。
我々的にはデニム氏を声も態度も体もデッカいけど、
さわやかな兄ちゃんだぁ!という好印象を抱いていたので(当時は)
それは本当に心強い限りで、いろんな相談に乗ってもらったし、
それこそバンドのなんたるかを1から叩き込まれたのだった。
96年ピスキッズは無事デビューを果たし、
ライブはもちろんやれレコーディングだぁテレビだぁラジオだぁ雑誌の取材だぁと、マジで口内炎がいつまでたっても治ることがないほど睡眠時間のない忙しい日々を送っていたのだが、
そんな中ひょっこりオープンした(我々的には)のが新横浜ベルズだったのだ。
こないだの『こやまつり』で初めて聞いたんだけど、
ピスキッズ以外にもなかなかの仕事を2つ3つ抱えてたとか。
確かに出たり入ったり忙しそうにしてたな。
そりゃこっち手薄になるわ!(笑)
いやいや、ちゃんとやってくれてましたってば!
今ではだいぶ記憶も曖昧になってきてるが、
あの数年は本当にいろんなことあったなぁ〜、
デニム氏からの目線と私からの目線では見ている景色は違ってたろうけど。
私、親孝行もろくにできてない男なので、
コヤマン孝行なんてしてやれる訳もないのだが、
ひとつだけ、
「これちょと嬉しかったんちゃうん自分?」って思えることがあって、
永らくやらせてもらったOBCのブンブンリクエストというラジオ番組で、
忌野清志郎さんがゲストにいらっしゃったことがあり、
デニム氏が拓郎さんと同じぐらい大好きだったので、
この時ばかりは
「うっひょ〜〜〜!いいじゃんいいじゃんいいじゃん!ピスキッズありがとうっ!アハアハアハっ!」って
思ったんではなかろうかと、勝手に思ってます。
次回へ続く。