総選挙である。


今年で三回目ということだが、一回目の時は全く知りませんでした。

昨年、大島優子が前田敦子を破り、政権交代劇が繰り広げられた。
総選挙1位の特典、センターポジション大島優子でのリリースとなったヘビーローテーション。

マスコミでの扱われ方もこの頃から大々的になり、遅ればせながらAKBに注目するようになった。


AKBを好きっていうと、白い目で見られるような空気がある。口にした途端、評判を下げてしまうようなリスクがつきまとう。
それもあって口に出すとちょっと恥ずかしいし、勇気がいる。
これには心辺りがあるのだが、約30年前、おニャン子クラブがデビューした時、世の中はおニャン子ブーム一色だった。

一方でおニャン子好きっていうことの気恥ずかしさから、実は好きなのにそれを認めようとしない自分。
どこがいいのかわからん!あんなんどこがええの?とかちょっと小馬鹿にしたアンチの態度を取ってしまったりしていた。

これは思春期男子特有の好きな子に意地悪してしまう感覚に似ている。と思う。

AKBの場合も経験上、本当に興味ない人もいるんだろうが、アンチを気取ってる約3割強が隠れファンではないかと漣は考えている。



おニャン子の場合ある種、恋愛の対象としてのファンであった。当然小遣いはおニャン子のレコードに全て費やした。


現在40歳の漣がAKBが好きなのはその頃の感覚とはちょっと違う。

AKBを好きと公言する以上、失笑上等なので、言い訳でも何でもないのだが、AKBに関しては別にCDを買うわけでもなく、写真集を買うわけでもない。
ましてや部屋にポスターを貼るわけでもない。
彼女たちには全く何も与えていない。
だからファンとは言えないと思っている。
漣の定義ではファンとはアイドル(アーティスト)を応援し支え、見返りを求めない、ある種無償の愛を与える存在だと思うからだ。


彼女たちの何がいいのかと自分なりに分析したところ、それは高校野球に近い感覚なのではないかと最近解ってきた。


漣は彼女たちに青春を感じているのである。


それは歌詞とPVの作り方によるものが大きいと思うのだが、半数以上のPVがストーリー仕立てになっていて、ちょっとした映画を観た感覚になる。


恥ずかしながら、気がついたら頬に涙が…


これはおニャン子ファンだった時にはない現象だ。
いや、ナカジが卒業した時泣きましたよ、そりゃ。
でもそれとは涙の種類が違う。

AKBのはルーキーズを観て流す涙と同じ系統のものなのだ。


その事を裏付ける証拠として、モー娘。っぽい雰囲気の、ある種アイドル然とした曲は全く良いと思わず、学生生活が舞台の一人称が僕で書かれているような作品にやられてしまったのだ。

秋元康恐るべしである。

同世代のAKBファンがどういう感情で応援しているのか知らないが、少なからずこの感覚もあるんじゃないかと思う。


青春時代に想いを馳せノスタルジックになる感覚。


もう立派に初老です。


次回につづく