映画「マディソン郡の橋」にみる恋愛の不条理 | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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クリントイーストウッドとメリルストリープ主演のクリントイーストウッド監督の映画「マディソン郡の橋」は、言わずと知れた名作だが、これを観て泣けるという人とそうでない人が居る。

原題は「The Bridges of Madison County」。

ロバート・ジェームズ・ウォラー(Robert James Waller)の同名ベストセラー小説が原作となっている。

 

舞台となった米国アイオワ州マディソン郡のウインターセット(Winterset)には、いくつかの屋根付きの橋があり、原題では橋が複数形のBridgesになっているが、複数形なのにTheが付いているのは、その橋が特定の、特別な意味を持っているからではないかと推測する。

物語に登場する橋は、現存する6つの橋のうち、ローズマン・ブリッジだそうだ。

 

私は過去に3回ほど観たが、3回とも泣けた記憶がある。

1995年の映画なので、最初に観たのは26年前つまり31歳の時だ。

当時結婚していた最初の妻は、オリジナルの小説を英語で読むほどこの映画が好きだったが、その時にはなぜ彼女がこの物語をそれほど好きだったかについて深く考えはしなかった。

 

私は原作を読んでいないのでなんとも言えないが、おそらくこの小説は、もともと女性目線で書かれたものであろうと推測する。

 

少なくとも、映画では意図的にそのような演出になっており、メリルストリープ演じるフランチェスカの死後、子供たちが残されたフランチェスカの日記を読みながらその4日間の物語を追っていくという形で、子供たちによって回想される「フランチェスカにとっての永遠の4日間」の記録として描かれている。

 

30代の私がこの映画を観て、ぼんやりと理解したのは、女性というのはそれが一瞬であれ、本物の恋愛(真実の愛?)に出会ったと確信したときに、それを冷凍保存して永遠に死ぬまで抱き続けることができる不思議な生き物なのかもしれないということだ。

この映画に傾倒していた元妻に対しても、もしかすると彼女にもそういった形で冬眠している誰か私の知らない人との愛があるのではないか?と若かりし頃の愚かな私は疑ったものだ。

 

たぶん50歳を超えてからは一度も観ていなかったように思うので、今回もういちど57歳の自分がどう感じるかは自分でも興味があった。

 

最近20代の娘たちとこの映画の話をしたのがきっかけなのだが、話をしていて自分がなぜどの場真面で具体的に泣けたのかはあまりはっきりしなかった。

上の娘は観たことがなく、映画好きで夢想家の下の娘は観たことはあるがあまり印象に残っていないとのことだった。

 

この映画は、基本的に「田舎に住む平凡な主婦と、都会から来たカメラマンの不倫」の話にすぎない。

134分という長い尺の映画でもあり、最終的に泣ける部分は最後の10分くらいなので、ほぼ2時間は冷静に観るとやや退屈な昼メロ的な不倫ドラマとも言えなくもない。

不倫を美化しているクソ映画だとの評価すらある。

 

映画化にあたって、自身が監督したクリントイーストウッドとこの映画のためにわざわざ太ったというメリルストリープという名優がキャスティングされていなかったなら、このストーリーの映画としての成功はなかったかもしれない。

 

知らなかったが、この小説の映画化権はもともとスティーブン・スピルバーグがたったの25,000米ドルで買い取っていたもので、スピルバーグの監督で当初話が進んでいたとらしい。

フランチェスカ役にはイングリッド・バーグマンの娘であるイザベラ・ロッセリーニの可能性もあったようだが、イーストウッドの推しでメリルストリープになったようだ。

結果として、メリル・ストリープの起用は正解だったように思う。

 

私は、この女性目線で描かれたこのストーリーのどこが男性である自分にとって泣けるのかを分析してみたくて今回は観てみたのだが、結論から言うとこの映画の泣ける場所は、最後の3シーンしかない。

 

1)雨の中の信号待ちの車内シーン

2)フランチェスカの旦那が亡くなるときのシーン

3)橋の上から散骨するシーン

 

最も胸が詰まるシーンは、おそらく殆どのこの映画で泣ける人が泣くであろうシーンだが、雨の中の最後の別れのシーンだ。

 

特に、信号待ちの車中で、前に止まっているロバートの車が信号が青になっても動かず、旦那が運転するクルマの助手席でフランチェスカはそれが意味することを理解し、ドアノブに手をかけ、今や飛び出そうとするが、それを断念する場面は、間違いなくいちばん胸が締め付けられるシーンだろう。

 

この場面で、男性である私が泣ける理由を考えてみたのだが、たぶんそれは「運命的な出会いの不条理な結末」ではないかと思う。

互いに惹かれ運命的な出会いを認識しながらも、男性の考え方と女性の考え方の根本的な相違によってそれが成就しない不条理が胸を詰まらせるのかもしれない。

 

このシーンおいては、おそらく男性も女性もその別れの理不尽さに、それぞれが少し違った意味で涙するのではないだろうか?

 

ロバートはこの先の人生をフランチェスカと生きることを決心していたが、フランチェスカは踏み切れない。

 

2人の望むことはあの瞬間に同じだったにも関わらず、現実の世界で寄り添うことを選んだロバートに対し、フランチェスカはそれを諦めて永久保存するという精神世界に逃げてしまう。

 

フランチェスカが掴んでいたドアノブの向こうには、ロバートが決心した現実世界での2人の生活が待っていたはずだ。

 

男性としての自分は、ロバートの気持ちに共感しているので、ドアノブに手をかけたフランチェスカに対し、「行け!行くんだ!」と心の中では叫んでいる。

 

旦那の運転する車の助手席にいるフランチェスカに対して、あれだけのサインを最後に送るロバートの気持ちを考えるとそれも泣けてくる。

 

旦那が信号が青になっても動かない前のロバートの車にしびれを切らして、クラクションを鳴らす。

 

ようやく諦めてゆっくりと走り出すロバートの車。

 

泣き崩れるフランチェスカ・・・。

 

自分がフランチェスカなら、行ってしまうだろう。

 

でもフランチェスカは行かない。

 

この旦那以外セリフのないシーンには不条理が集約されている。

 

現実には4日間、映画では2時間で描かれるラブストーリーは、偶然の出会いとはいえ、フランチェスカもロバートもそれぞれが、それぞれの人生にとって運命的なソウルメイトととの出会いであるということを確信していた。

 

年齢的に考えても、これまでの人生を振り返ってみても、「もう2度とこのような出会いはない」ベターハーフとの予期せぬ邂逅を、彼らはお互い「真実の愛」であると認識したのだ。

 

ただ、フランチェスカには夫がおり、愛する子供たちがいる。

自分のせいで家族を不幸にはできない。

 

一方、ロバートには家族はいない。

ロバートが失うのは今までの自由であり、家族からフランチェスカを奪ったという罪の意識に死ぬまで苛まれるという心理的な負荷が障壁だったかもしれないが、ロバートはこの人生最後のチャンスを手放したくなかった。

 

フランチェスカにとっても、この神が与えたたった4日間の出会いは、残りの人生を劇的に変えてくれるチャンスだったに違いないが、フランチェスカはそれを選ばない。

 

おそらく、フランチェスカは現世での自分の夢をその時に捨てたのだろう。

 

もし、自分がクルマから飛び出して行ってしまったら、残された家族は小さな町の狭い社会で妻を風来のカメラマンに寝取られて捨てられたという噂でこの先ずっと悲惨な目に遭うことは明らかだし、ロバートも今までの自由を奪われて、自分の為に犠牲にしたフランチェスカの家族のことを悔やみ続けることになるかもしれない。

 

その事によって、真実の愛に出会えた幸せを無為にしてしまうかもしれないと考えたのだ。

そこで彼女は精神世界に思考を切り替えるという男性には理解不能な行動を取る。

 

恋愛において、現実世界と精神世界を切り分けるというウルトラC技は、ロマンチストの男性の脳には無い特殊機能だ。

 

人生において、ベターハーフやソウルメイトというようなパートナーに出会える確率は極めて低い。

そもそも前世でひとつだった、あるいは関わりのあった魂が、現世において引き合って出会うというオカルトな話には科学的根拠が全く無い。

 

ただ、それが本物かどうかはともかくとして、そういう経験をした人やそれを信じているひとはいる。

また、そういった出会いに憧れているひとも多い。

 

そういう人たちにとってこの映画は、何度観ても涙をそそるに違いない。

 

この映画が全く泣けないひとは、たぶんそういう経験も憧れもないひとなのかもしれない。

 

だから、それが悪いという話では無い。

現実的で合理的な思考のみで、人生におけるソウルメイトとの邂逅という非科学的な恋愛論は理解できなくて普通だと思う。

 

この映画が上映されてから26年経った今、日本でも不倫は文化として定着しているものの、現実的には法的にも宗教的にも、一般的なモラルの観点でも、不倫行為を正当化できる論理的ポイントはどこにも見当たらない。

 

ただ、そういうことが現実にはうんざりするほど起こっていて、それが「真実の愛」であろうがなかろうが、正当化されない理不尽さと、成就しにくい不条理の中に埋もれている。

 

この映画「マディソン郡の橋」で描かれるラブストーリーは、フランチェスカの決断によって、2人の現世での関係は4日間で終わり、死ぬまで2人が会うことはないという悲劇でもあるが、その事によって2人の4日間は、その後それぞれが死ぬまで2人の心の中で封印され、ふたりにとっては「永遠」のものとなる。

 

フランチェスカの死後、残された日記からその事を知った子供たちも、全てを知った後にはそれを理解し、母が望んだように「せめて死んだ後は彼のところに返してほしい」という遺言である「思い出の橋の上での散骨」に同意する。

 

しかしロバートは、死ぬまできっと寂しかったに違いない。

思い出の橋の上で遺骨を蒔いてもらったところで、そもそも魂や精神世界というものが存在しなければまた出会えるというものでもないと思えるからだ。

 

ただ、それを理解できない男性からみても、フランチェスカの情念は灰となってロバートの元に帰って行ったに違いないと思えるところにこの物語の深さを感じる。