AIに対抗しうる馬鹿力(ばかりょく)という人類の最終兵器を馬鹿にしてはならぬ | Mr.Gの気まぐれ投資コラム

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50代グダグダちょい悪おやじMr.Gの趣味と海外投資に関するコラムです。
香港を拠点に活動する個人投資家であり、自称「投資戦略予報士」Mr.Gがお伝えする海外投資の生情報。
ねだるな勝ち取れ、さすれば与えられん!

 

 

経験と知識による統計的な物事の判断や、より多くの情報の中から有益なものを合理的に瞬時に抽出し分析する能力に於いて、人間は既にAIには敵わない。

 

我々年老いたビジネスマンは、経験値では20代の若者に遥かに勝ってはいるものの、記憶力や頭の回転の速さ、行動力などに於いては全く勝負にならない。

しかも若い世代の教育レベルは昔より遥かに高い。

それを時々羨ましくまぶしく感じることもある。

 

しかし、今後はそのような脳みそや肉体の劣化によって衰えていく能力や機能はAIやロボットによって容易に置き換えられていくことだろう。

 

つまり、今の子供たちが学校で勉強していることは、もしかすると10年後には無意味なものになっているかもしれないということだ。

 

これは、あくまでビジネスという戦場を想定してどのような能力が生き残りのために必要か?という議論であり、普通に人間としてまともに生きて行くための最低限の知識や能力という次元の話ではない。

 

ここ数日、対AI戦略について考えてみたのだが、結論として思いついたのが、人類の対AI戦略における最強の武器は、「馬鹿」ではないか?と。

 

ひとくちに「馬鹿」といっても、そのコンセプトは漠然としており、「馬鹿」の語源にも諸説あるため、ここでは馬鹿の意味についての詳細な議論は省略させてもらうが、人類の最終兵器としての「馬鹿」は、基本的に我々が「馬鹿」だと一般的に感じる「馬鹿」もしくは関西でいえば「アホ」に相当するものと考えてもらって構わない。

 

「馬鹿」のしでかすことは、論理や経験に基づいてよくよく合理的に考えてなされるものではなく、人間にも予想がつかないし、AIには真似ができない。

 

つまり、敬愛の念を込めて、人間が本能的に親しみを感じ、笑いを巻き起こす、愛すべき本物の馬鹿は、AIでは成り立たないのではないかと思う。

 

ある愛すべき馬鹿店員と、優秀なAI店員から同じものを同じ値段で買うとした場合に、購入者が人間である場合には、どちらから買うかは案外50%50%ではないだろうか?

 

仮に服を買いに来ていたとすれば、優秀なAI店員は、全ての在庫の中から瞬時に顧客のサイズと予算にあった好みのデザインと色のモデルをあっと間に提案するだろう。

 

一方、馬鹿店員は、全く何の根拠も論理も考えもなく、何となく自分がその人に似合うだろうものを自分の知っている僅かな範囲から抽出して提案するかもしれないし、最悪全く提案できないかもしれない。

 

ものを購入するという人間の行動は、残念ながら合理性だけでは成り立たない。

サイズが合おうが合うまいが、似合おうが似合うまいが、欲しいものは欲しいし、欲しくないものは欲しくない。

 

時に、意外なところにある購買のスイッチを不意に押されて、買う気もなかったのに買ってしまうことがある。

 

欲しくないものでも買おうかと思わせてくれるような馬鹿店員のほうが、もしかすると合理性に於いては完璧なAI店員よりもよく売るかもしれない。

 

しかし、中途半端に知識や経験のある、合理的で優秀な人間の店員と完璧なAIの店員では、AIの店員の方が圧倒的に有利だと思える。

 

つまり、馬鹿が人類の最終兵器たる為には、純粋に馬鹿であるか、もしくは優秀であるにも関わらず馬鹿のふりをする能力があり、どう見ても馬鹿にしか見えないかのどちらかしかない。

 

どんなに優秀でもAIにまさる答えを出せない中途半端な優秀さがダメなように、中途半端な馬鹿もいけない。

 

黒澤明監督の名言集にも『馬鹿に道あり、利口に道なし。』というのがあるそうだが、流石と言わざるを得ない。

 

 

また、スティーブ・ジョブズのスタンフォード卒業式での有名なスピーチにおいても、『Stay Hungry, Stay Foolish』という私の好きな言葉があり、日本語では『ハングリーであれ!愚かであれ!』と訳されているが、「人間は学び続けなければならないが、頭でっかちで行動力のない中途半端に賢いオトナにはなるなよ・・・」という若者達に向けた強いメッセージを感じる。

 

 

「馬鹿」を表現するキーワードには、無知、無能、無神経、無頓着、無謀、無計画・・・など無がつく言葉が多い。

 

こういう私も、大学時代には無神経、無計画、無謀だったかな・・・の三無主義者と呼ばれていた。

 

人生というものは、未知のものとの出会いや、未知な世界へのチャレンジといったリスクや、それに立ち向かうときの恐怖の連続である。

 

それを全てに立ち向かって乗り越えて行くためには相当な、無神経さや無謀さを持った「馬鹿」でなければ無理だ。

 

ちょうど冬季オリンピックが開催されているが、男子フィギュアで66年ぶりの金銀メダル同時取得を実現させた羽生クンや宇野クンのようなスーパーマンも、相当な馬鹿でなければあんな事は実現できない。

 

羽生クンは、今後4回転アクセル(4回転半)にチャレンジすると言っているが、実質5回転並の回転数を空中で実現するということはもはや人類の域を超えている。

その練習を想像しただけで身の毛がよだつほどの恐怖である。

 

なにかとんでもない事を成し遂げたり実現するような特別な馬鹿パワーや馬鹿スイッチは、遺伝子に組み込まれた特殊能力なのだろうか?

 

しかし、我々大半の凡人は、彼らは天才であり馬鹿だとはだれも思っていない。

 

つまり、凡人は馬鹿を馬鹿にしている馬鹿と言えなくもない。

 

自分も馬鹿になれば、できないと思っていたこともできるかもしれないのに、自分は馬鹿ではないと思っているから馬鹿にはなれない。

 

先ほどのジョブズの言葉「Stay Foolish」の訳で使われている「愚かであれ!」という日本語には個人的に違和感を感じる。

 

「馬鹿」と「愚か」は少しニュアンスが異なる。

 

もし「Stay Stupid」なら「馬鹿であれ!」になるのだろが、英語のStupidは本当にStupidというか間抜けな感じで、日本語の馬鹿とはまたちょっと異なる。

 

人間は往々にして愚かな生き物だが、愚かであってはならない。

 

馬鹿は素晴らしいが、愚かな人間にはなりたくない。

 

「愚かになるな!馬鹿であれ!」

 

馬鹿になれる馬鹿スイッチが遺伝的な要素でないとすれば、訓練によって人間はその封印された馬鹿スイッチをオンに出来るのではないだろうか?

 

私は既に相当な馬鹿だが、無で始まる多くのフィーチャーを兼ね備えた、本物の馬鹿になりたい。

 

そして、AIごときには理解出来ぬ馬鹿パワーを育成する『馬鹿道』を極めたいと思う。

 

そんな馬鹿を受け入れてくれ、一緒に馬鹿が出来る友人や仲間は人生の宝物だ。

 

そんな仲間たちと、馬鹿でAIと戦い、世界征服をもくろむ「秘密結社」を結成したいものだ。

 

「あんたバカぁ?!」

 

「そう、バカなんです(^^)」