組織というものは、共通の理念を持ったものたちが強力なカリスマ性を持ったリーダーの元に集まって作られるべきものだと思っていたが、冷静に考えてみると、最近の多様化が進んだ世の中において、たとえ一人だろうが、自分以外で自分と同じ理念や理想を持った人など既に存在しないのかも知れない。
「共通の理念」などというものが、そもそも現代に於いては死語なのだ。
にもかかわらず、「共通の理念」を共にできる組織を目指して作ろうとする行為は、経営者のエゴとも言える自分勝手な理念に、賛同するというウソを平気でつけるイエスマンを集め、賛同しないものを排除していく独裁的な組織を構築しようとする事に他ならない。
よくある「俺の理念に従わないものは去れ!」・・・的な独善的な経営者になってしまう。
人間というのは、自分では成し得ないような事を強い意志で遂行できる、わかりやすく純粋な理想を抱いた強いカリスマを心のどこかで求めているようなところがある。
そういう強いリーダーに従っていけば、自分は自分ひとりで出来る以上のことが出来るような気がしてしまうものだ。
なぜなら、殆どの人は自分というものをそもそも理解できていないからだ。
自分というものを理解し自分の理念を把握するために、誰か他人の心地よい理念に従ってみるというのも悪い考えではない。
少なくとも、従ってみればそれが自分の価値観と合ってるのかどうかはいずれわかるからだ。
リーダーにおけるカリスマ性というのは天性のものであり、カリスマ的リーダーに率いられる組織はそのカリスマのかける魔法によって結束が堅く、凡庸なリーダーに率いられる自由気ままな組織と比較するとその戦闘力は比較にならない。
ビジネスの世界においても、当然の事ながら、カリスマ的経営者が強い理念と尊い理想を掲げて、ある意味洗脳されたかのような強大な組織の競争力は高いし、そこで働く社員の士気は高く、その組織に属しているだけで自分の能力以上のことがなし得る気がする。
しかし、それは幻想に過ぎない。
一見素晴らしいと思える理念や理想も、それが複数の人間達で共有できるものなのかどうかわからないし、それすら作り上げられた幻想かもしれない。
どんなに素晴らしいカリスマであっても、そのひとが掲げる理想や理念と自分がもっている理念が一致するはずがないし、それに合わせていくことは無理がある。
自分は自分であり、所詮、自分の理念は自分を中心に構成されている。
特にインターネットによる情報や知識の共有化が進んだ現在は、思考のリベラル化が進み、団塊ジュニア以降の若い世代の間では指向性が分類できないほど多様化し、共通の理念などどいうものは既に存在しない。
天性のカリスマがかける魔法は、そういった現実には自分の理念とはそぐわないものを、あたかも崇高で従わなければならないと思わせる。
しかし、魔法の効力はいつか切れるし、その組織の中で個人の幸福や満足が得られるチャンスは低い。
リーダーを目指そうとする人は、そのような魔法を手に入れようとしていると考えても良い。
私自身も、現在に至るまでどこかそのようなカリスマ的経営者に憧れを抱いてきて、そうなりたいと思っていたふしがあるが、今年になってその夢にはあまり意味がないことを悟った。
自分は子供の頃から特に何かに秀でた部分があるわけでもなく、比較的努力家だとは思うが、基本的に凡庸な人間だし、悪魔の実の能力者でもない。
ひとは生きている限り、日々高みを目指して努力し続けなければならないとは思うが、その結果もし仮に強大な何らかの力を手にし、それを使って人々を跪かせ、多くの従属する仲間を引き連れたところで、そこで本来自分が求める“心が共鳴し、魂が震えるような”人間の繋がりが得られなければ何の意味も無い。
このような現実の中で、我々50代以上のオトナが・・・いやこれから組織をゼロから築いていく若者達にしても、規模に関わらず強力な組織を構築するために、今までの一般的な組織論に基づいて何を努力しようとも、その組織論自体が完全に時代遅れとなっているばかりか、既に崩壊しているとすれば、一体これからの経営者はどうすれば良いのだろうか?
年寄り達は、若い世代に人たちに、これ以上自分たちが固執してきた過去の理想や理念を押しつけて、排他的経営を続けても仕方ないのではないだろうか?
組織というものは、それを作る側と、属する側の大きく2つに分かれる。
属する側は、会社で言えば雇用される労働者に当たるが、組織に属する側が、どの組織に属するかの判断基準は、必ずしも個人の価値観だけに起因するものでは無く、限りなく現実的な、金銭的な報酬や労働条件の場合もあれば、世間体などの虚栄心もあれば、経営者が尊敬できるできないなどウェットな側面もあり、極めて多様だが、組織を作る側の経営者の論理は、どのような人たちをどのような方法で集めようが、その組織が生き残れる強い組織でなければ組織を作る意味は無い。
それゆえ、戦乱の世から今に至まで、より強力なリーダーシップが組織には求められ、それが徹底できた強い組織だけが生き残ってきたかのように見える。
しかし、これからの時代にはそのような今までの組織論では生き残れない気がしている。
そもそも30年後は、今は人間がやっている殆どの仕事はAIやロボットがやることになる。
AIやロボットの管理には、カリスマもリーダーシップも不要だ。
AIに対して人間のリーダーシップが不要であるばかりか、今までのように仕事というものが知識や経験に依存し、効率的な事務作業に依存するのであれば、AIのほうが管理能力は高いと言えるだろう。
つまり、組織論の核であるリーダーシップは、人間に対してしか有効ではない。
また、金銭だけを目当てに働くAIやロボット以下の底辺の労働者に対しても、そもそもリーダシップは不要だ。
今後必要とされる「新組織論」とは、AIやロボットにはできない人間固有の何か付加価値のある仕事ができる一部の人たちを束ねていくものでなければならず、はたしてそのような特殊な組織に於いてカリスマ的リーダーシップが機能するのかどうかは疑わしい。
アリババのジャック・マーさんが言っているように、これからの時代は、IQ(知能)ではAIに勝てないので、EQ(感情)やLQ(愛情)といった人間らしい能力が必要とされる時代に間違いなくなるだろうと思う。
想像するに、過去の組織論やリーダーシップの崩壊によって、大別すると以下の3パターンの組織が結果として生まれてくるように思う。
1)理念や理想などというギミックを完全に捨て去り、金銭の繋がりだけの極めて打算的で現実的な組織
2)多様化した価値観を受け入れ、各々が好き勝手にやりたいようにする、強力なリーダーシップに依存しない成果優先型の集合組織
3)依然としてカリスマの理念と魔法に依存する宗教的な組織
そして、この3パターンのうちどの組織に競合性があるのかは今のところつかみにくいが、現在のところ、2)のパターンが最先端でかつ競合性が高いように思われる。
いずれにせよ、これからの経営者が求められるリーダーシップは、崇高な理念や思想を掲げる強力なカリスマ性ではなく、無限にある人間の個性や価値観をスポンジのように何でも受け入れて吸収できる圧倒的な許容力と柔軟性ではないかと感じる。
ひとはたとえ経営者であっても、自分の求める理想を他人に強要すべきではない。
もともと資本主義における雇用という名の近代の奴隷主義によって成り立ってきた企業組織は、経営者の掲げる理想や理念というまやかしを盾に合法的な奴隷制度を継続しているに過ぎない。
AIにはできない、人間にしかなし得ない仕事を紡いで組織として運営する新時代のリーダーは、少なくともAIには実現不可能な高度なEQやLQを持っていなければならないだろう。
50歳を過ぎた自分がそのような能力を今から育成することは困難だが、子供たちの教育は根本的に見直さなければならない時期に来ていることは間違いないと感じる。