1972年~1973年にかけて放映されていた「愛の戦士レインボーマン」というヒーロもののTV番組があります。
「愛の戦士」というのが付くとプリキュアみたいですが、全然違う男の子向け番組です。
私も当時8歳とかだったので、観てはいましたがストーリなど詳しくは覚えていませんが、ウィキによると結構ディープな設定の番組です。
インドのダイバダッタという師匠のもとで修業を積んだレインボーマンことヤマトタケシと日本の壊滅を目論む死ね死ね団との戦いを描いたこのTVドラマは、今からは考えられないような背景設定がなされていました。
特に、この「死ね死ね団」というストレートに悪者っぽい名称の秘密結社は、「戦時中に日本人から虐待を受けた連中の反日組織」という実にシュールリアリズムな設定です。
(※高樹蓉子さん演じるキャシー)
死ね死ね団の女幹部にはこんなべっぴんさんも!?
この死ね死ね団のテーマソング『死ね死ね団のうた』は、公共の電波で、しかも子供向けに放映されていたものとは信じられない、歴史に残る悪曲で、死ね死ねを連発し日本への憎悪を完ぺきに歌にしたものです。
Youtubeで聞くことが可能なのでギャグとして聞いてみて欲しいです。
http://www.youtube.com/watch?v=suLYNVtzvOQ
子供心に、この『死ね死ね団のうた』は印象に残っており、同時にこのような悪い奴らと戦うには、インドの山奥で厳しい修行をしなければならないという事も同時に学んだような気がします。
子供たちが当時、簡単に死ね死ねと言う言葉を発する傾向に多少は影響があったかもしれませんが、同時に子供たちはヒーローのストイックさを学び、これまた危険な「修行ごっこ」というのも流行ったものです。
この危険な「修行ごっご」は、高い崖から飛び降りるとか川を飛び越えるとか、いかに危険な事をたくさんこなすかで経験値を増やして競い合うという今から考えると死人が出なかったのが不思議なくらい危険な遊びでした。
今では、そのようなハードの修行ができる遊び場所も無くなってしまったので、やりようもありませんが、その代わりにハードな?ロールプレーゲームに熱中する子供たちだらけになってしまいました。
バーチャルなので不健康ですが、けが人や死人は出ないので「リアル修行ごっこ」より遥かに安全です。
「死ね死ね団のうた」については、議論のあるところですが、古き良き昭和の時代ではこういう単純でわかりやすい表現のもとに「悪者」というイメージが作り上げられていたように思います。
当時はそれに対してあまり疑問も持たなかったし、そのことが原因で今と比べていじめが多かったかと言えばそんな気もしません。
同様な「言葉使い」の問題で再放送されない「侍ジャイアンツ」や「妖怪人間ベム」など、私が幼少期にかなり影響を受けたであろうTV番組が「教育上よろしくない」と言われると何だか複雑な気持ちです。
まぁ、もしかするとそんな俗悪番組ばかりを観て育ったせいで私はこんなヘンテコな人間になったのかもしれませんが・・・。
最近のTV番組は、たとえば芦田愛菜ちゃんが出ている『明日、ママがいない』という赤ちゃんポストに捨てられた子供たちを題材にしたドラマが論議をかもし出し、スポンサーが手を引いて一時は番組打ち切りの噂まで出たような現象から見て、デリケートな話題に関するTV番組での表現は極めて制限されるような状況です。
一方CMの世界では、要潤がイイ味を出していた「ホクトのエロCM」に見られるような表現の自由を超越した刺激的なものが案外野放しになっていたりします。
ちなみに、このCMも苦情により打ち切りになったようですが・・・。
このように表現が極めて制約されるTV番組の中で育った子供たちが、正義と悪を正しく理解することは難しいように思われます。
まさに、『ワンピース』のように、どこの正義があるか判らないものがディフォルト設定になっている時代なのかもしれません。
その勧善懲悪から喧嘩両成敗への転換期は、70年代の「宇宙戦艦ヤマト」だったように思います。
我々の世代では、『死ね死ね団』のように、複雑な事を言わず、純粋に日本という国を滅ぼそうとしている秘密結社や、地球を支配しようとしてやってきた『宇宙猿人ゴリ』のような宇宙人が悪者で、正義の味方はときに厳しい修行を経て超人となり、ときにボロボロになりながらも、その敵と戦ってこそ正義の味方たり得たのだと思うし、そう理解することが果たして間違っていたのかどうかはわかりません。
もしかしたら、『死ね死ね団』や『宇宙猿人ゴリ』にもそれなりの事情はあったでしょうし、やたらめったら死ね死ねと言ったり、地球を征服すると宣言しなくても、粛々と静かにミッションを遂行していれば良かったのかもしれませんが、それでは知らないうちに日本や地球は滅ばされてしまいますし、ヒーローの出番もありません。
堺正人主演で法廷を喜劇的に描いた『リーガルハイ』も久しぶりに腹を抱えるほど笑わせてもらいましたが、冷静にストーリーを振り返ってみると、法廷での正義というものについてまったく現実的でもなく、釈然とした解釈も表現もない、喜劇として純粋に笑うしかないお話でした。
それでも面白かったから別にいいのですが・・・。
同じく堺正人主演の『半沢直樹』に至っては、最終的にどこに正義があったのか完全に見失うストーリー展開でした。
今の時代に生きる子供たちは、昔のようにTV番組を通して記号論的で純粋な正義や悪を認識することは無くなりました。
世論の強まりとコンプライアンス上の規制が厳しくなったことで、メディアが白黒はっきりしない複雑でぼやけた物語しか提供しなくなったからと言って、決して差別や偏見や、いじめが減ったわけではなく、むしろ深刻化しているような気がします。
何が正しくて、何が間違っているのかに関して、必ず儲かる投資が無いのと同じように、絶対的な意見はありません。
その時代の概念や法や慣習に則った常識的なものの考え方というものは、親が子供に伝えていくしかありません。
そんな答えのないものを、どんな学校も、メディアもひとつも教えてはくれない訳ですから。