エッセイ190「充実した大学時代」 | あなたのココロ、治します。

エッセイ190「充実した大学時代」



 一年休学して復学するときが来た。一浪人、一留年、一休学しているので現役で大学に入ってきた人より三年遅れていることになった。もう後がないと思っていた。何とか友人をたくさん作って学校に溶け込むことを考えた。それにはサークルに入ることが一番だと考えて二つのサークルと一つの体育会に入った。サークルのひとつは文学散歩の会という文学サークルで、もうひとつはジェントルホイールというバイクのサークルだった。体育会は自動車部に入った。

 文学にはもともと関心を持っていたから文学サークルに入ろうとはじめから思っていた。新入生の勧誘活動で一番最初に説明を受けたのが文学散歩の会だった。テーブルを陣取り、Yさんという二年生がいすに座って勧誘を行っていた。Sさんという美形の女性もテーブルにいてとても好感が持てた。こんなきれいな人がいるのならぜひ入ろうと思った。

 理工学部の学生は一年次を厚木キャンパスで過ごし、二年以降は世田谷キャンパスで過ごすことになっていた。

 厚木キャンパスは小田急線本厚木駅からバスで三十分もいったところにあるようなど田舎キャンパスだったが、その割にあまり広くなく、文系の学生は二年次までいるので人口密度はかなり高かった。そのため昼食を摂る席も「サークル席」といってサークルに入っていない人は追い出される始末だった。その点、文学散歩の会は大学公認サークルで部室が割り当てられていたのでそこで昼食を摂ることができた。

 その部室でノリコに出会った。彼女は現役で入学していたので学年は二年生だが、僕の方が二歳年上だった。なんとなくいいな、と思った。あとで聞けば向こうもそう思っていたという。僕らが親密な仲になったのは新入生歓迎合宿だった。飲み会の席で罰ゲームをすることになった。ゲームに負けると夏合宿の幹事をやらされることになっていた。

 幹事は二人でひとりはノリコに決まっていた。そうとは知らずに僕がゲームに負けた。まわりから見ればわざと負けたと思われるかも知れなかった。飲み会もみんな酔いが回ってきてぐちゃぐちゃになっていたとき、僕はノリコの元へ行った。二人で寝そべりながらいろんな事を語り合った。

 通常の生活に戻ったとき、僕は熱を出した。二DKのアパートで兄と二人暮らしをしていたが、そのころ兄はシステムエンジニアをやっていて毎日帰るのが午前様だった。そんな状態で兄には頼ることができず、僕はノリコに電話をかけた。

「あのー、熱を出しているんですけど看病に来てくれるか、僕が行くか、どちらかにしてもらえませんか?」
「熱のことはわかりましたけど、私たちっていったい何なのですか?」
「改めていいます。おつきあいして下さいませんか」
「わかりました。よろしくお願いします」

 こうして晴れて二人はつきあうことになった。はじめは二人とも丁寧語を使っていた。僕にとって彼女は先輩だし、彼女から見れば僕は年上の男だった。僕はつきあうことになった三日後には彼女のマンションにお邪魔していた。便利のいい町田に住んでいた。

 ノリコは四歳年上の姉と同居していた。姉に初めて会うのも緊張した。姉は
「私がいうのもなんですけど、この子、いい子だと思いますよ」
と太鼓判を押してくれた。実際、ノリコは面倒見がよく、やさしく、寛大だった。

 僕は成城学園前に住んでいたので厚木キャンパスへ行くにはノリコの家に泊めてもらう方が楽だった。実際、よく泊めてもらったが、後から聞いた話だと僕がノリコの家に泊めてもらってばかりいたので姉は神経性の胃炎にかかっていたという。謝る機会を逃してしまったが、ノリコの部屋に泊めてもらうことはとても重要な二人の時間だった。毎日のようにノリコの家から二人で手をつないで大学へ通った。

 文学散歩の会では、僕は詩やエッセイを書いて部誌に投稿した。そのころ父方の祖父が呆けてしまってうちで預かっていたので、その面白い行動を「うちのおじいちゃん」というエッセイに書いた。これは大ヒットしてみんなからほめられた。僕が投稿したのは結局三回だけだった。もう一つは詩だった。僕が死んでも彼女は地球が回るように男にまわされているといったものだった。三年生の先輩に

「これが本当だったら悲しいよ」
といわれた。結局その後は投稿もせず、まるでノリコをもらいに来たような状態になってしまった。

 文学の方はそれでも許されたが、体育会自動車部はそうはいかなかった。その前にもう一つのサークルであるジェントルホイールというバイクサークルの話をしたい。そこは自動車部をやめた人たちが作ったサークルでツーリングを月に二回ほどしていた。はじめの二回はいったものの、あまりおもしろさを感じられなかったし、自動車部の方が本格的だったので次第にそちらの方へ流れていき、バイクサークルへは顔を出さなくなっていった。

 自動車部は体育会だけあって、上下関係も厳しかったし、水曜日と土曜日の活動には必ず参加しなければならなかった。自動車部では広い駐車場のような場所へ行き、パイロンを立ててコースを作ってタイムを競うジムカーナという種目があった。また同様に土や小石の上を走るダートもあり、この二つが花形のスピード競技だった。

 後は車庫入れ技術のタイムを争うようなフィギィア、指示された文書の通り道を走るラリーがあった。僕は免許歴三年だったので他の一年生より速く走ることができた。一年生は十一名、二年生は一名、三年生が六名、四年生が五名だった。二年生が少ないのは、学生自動車連盟というものに誰かが入らねばならず、それが嫌でやめていったという。後に僕らの代で連盟員を出すということになり、五名がやめた。僕は二年生になって役職を与えられてから嫌になってやめた。育てた一年生が一年後にごっそりやめていったこともやめた原因だった。

 夏合宿では全部員でタイムトライアルをやり、雨上がりのダートが悪路であったこともあり、コンディションのよかった僕が上級生を押しのけて優勝してしまった。その後、一年生だけでやるチャレンジカップというイベントをジムカーナで争い、僕は免許を取り立ての三歳年下の学生に負けた。このことがとても悔しくて部活をやめる原因にもなった。

 二年生からは理系は祖師ヶ谷大蔵の世田谷キャンパスに通うことになっていた。僕のアパートから近く、毎日自転車で通った。

 ノリコは三年生になって青山キャンパスへ通うようになり、姉と別れて狛江のアパートへ引っ越した。一人きりで寂しいというので毎日のように狛江に泊まった。

 大学の勉強は、一般教養課程を一年で済ませ、二年生からは専門課程に入った。一般教養課程では、何がなんでもすべて最高レベルのAAを目指して勉強した。すべてとはいわないがかなり多くの科目でAAをとることができた。語学がすべてAAというのが自慢だった。

 しかしわからない科目の試験前や、設計製図の課題の提出前などではうつ状態になり、死にたくなった。病気が完全に治らないまま復学したからである。

 二年、三年と順調に単位を取り、四年生で研究室に配属されることになった。O研究室に入った。コンピュータが苦手です、と教授にいうと、ひとつひとつ教えるからユニックスを使う計算と実験をする研究課題をやらないか、といわれ、それを承知した。しかしパソコンさえろくに使えなかった僕にユニックスの使い方なんて全くわからなかった。本当に手取り足取り教授に教えていただいて今でも感謝の念を持って、年賀状やメールのやりとりをさせていただいている。

 しかし、春先でうつになっていた僕に卒業研究と就職活動をやるということはとても困難なことに思えた。僕は次の日から学校へ行かなくなり、実家にかえって大学を辞めたい、それか精神病院へ行きたいと母と兄にいった。そうして僕は病院と卒研と就職活動に追われた。

 卒業研究は何とか実験も済み、卒論らしきものができあがっていったが、教授は 「きみのプライドが許せば私に一任してくれないか」
といわれ、お願いすることになった。教授の完璧なプレゼンテーション資料も整い、何とか卒研発表も無事に済んだ。

 今思えばとても忙しく、充実した四年間だった。この四年間を僕は忘れることはできないだろう。