エッセイ184「幼児期の魂百まで」
僕は三歳の時に新宿の公務員アパートに移り住んできた。しゃべりだすのが遅かったそうだ。それで知恵遅れかもしれないと両親を心配させた。小さい頃から泣き虫で、それは今も変わらない。
幼稚園はY第一幼稚園へ通った。ちょうどY第七幼稚園との境にあってどちらに行ってもよい状況だった。小学校はY第七小学校へ行った。幼稚園ではHくんの手下だった。控えめだった僕とは対照的にHくんは独裁的だったので自然に手下のようになってしまった。泣きながらHくんの家まで走っていったことを覚えている。
Hくんの家では「おやつ」としてうどんが出された。おやつは甘いものだと思っていたし、おやつの時間にうどんを食べてしまっては夕飯が食べられなくなってしまうと思った。文化の違いを感じた。
幼稚園時代から僕は神経質だった。ティッシュのような柔らかい紙で花を作る時間があった。折り紙のようなしっかりした紙なら折るのが好きだったが、柔らかい紙ではきっちりと両端をあわせることが難しかった。そのころから完全主義者だった僕は「こんなことできない」と泣き出した。それを見て近くにいたTくんが「俺がやってやるよ」といって花を作ってくれた。
Tくんは元気のいい、比較的乱暴者だったから造花も多少乱れていても平気な様子だった。とにかく造花はできた。それを先生に提出した。Tくんには開眼させられた。百パーセントの出来でないからといって全く作らないよりは、多少荒くても七十パーセントの出来でも提出した方がよいということを学んだ。
絵を描くのはこのころからすでに苦手だった。才能がなかったのだろう。卒園アルバムの表紙に何か絵を描かなければならないことになって、僕はずいぶん苦労した。何を書いてもいいということで僕は幼稚園のみんなでいった水族館の絵を描いた。嫌で嫌でたまらなかったが無理矢理形にして提出した。そのかわりお遊戯は大好きだった。「地球ドンドン」という歌が大好きで今でも曲を覚えている。お弁当の歌も好きだった。「これっくらいの おべんとばっこに おにぎりおにぎりちょいとつめて」という歌だ。今では踊ることはできないがカラオケなどで歌うのは好きである。
好きな人もいた。三歳上の兄がしつこく誰だか聞くので僕は全然好きじゃないSちゃんの名前を挙げた。兄はそれが本当だと信じ込んでずいぶん後までからかわれた。
砂遊びが好きだった。住宅には砂場があったので同級生のHくんと毎日のようにどろんこになって遊んだ。大きなお城を造ってみたり、逆に深い穴を掘ってトンネルを造ったりした。カップに砂と水を入れてコーヒーを作った気になった。Hくんは後に法政二高から法政大へと進学した。偶然にも僕と同じ理系で、僕は機械工学科、Hくんは電気電子工学科だった。缶けりや色鬼、四人乗りのブランコでもよく遊んだ。
ある日ブランコを思いっきりこいでいたら口を激しく鉄パイプにぶつけて前歯が欠けてしまったこともあった。同じブランコで今度は左腕を骨折したこともあった。女の子とも遊んだ。一学年下のMちゃんや隣の借家に住んでいたTちゃんと遊んだ。一緒に水飴をなめたことを思い出す。Tちゃんは僕のことを好きで、勝ちゃん勝ちゃんと言っていたそうだ。兄とは程々に喧嘩もし、程々に遊んだ。兄と喧嘩しても勝ち目はないので手の小指を思いっきり引き裂いてピンポイント攻撃をした。将棋やオセロでは絶対に勝てないので遊ばなかった。そのころから負けん気が強かった。
誕生日に超合金ロボットを買ってもらったことがある。友達が家に来ていてそのロボットで遊びたがった。神経質な僕は遊ばせる前に全員に石鹸で手を洗わせた。
ひとり遊びも好きだった。プラモデルも好きだったが、特に粘土細工は大好きでロボットを作っては壊し、作っては壊しした。このころからすでにひきこもりがちだったようである。
また、母の首の裏にある小さないぼをいじるのが好きだった。だっこしてもらうとちょうど目の位置にいぼがある。母はそれを嫌っていたが僕のいじり癖はなかなか直らなかった。