エッセイ182「貧乏だった祖父母」
父方の両親は釧路の近くにある白糠という田舎で生活していた。祖父の名はTという。東京の中島飛行機(後のスバル自動車)で働いていたこともあったという。なにが原因かは分からないが白糠で農業をはじめた。
祖父は当時の中学校を卒業した人で教師にでもなれる人だったという。しかしこの祖父が変わり者で、今でいうひきこもりのようだったという。祖母の名はNといい、平成元年に亡くなった。農作業で祖母が苦労して生活を何とか営んでいた。
父は祖父母の次男として誕生した。貧乏なのに六人も子供を作った。僕は祖父が痴呆になって我が家に住むことになってからしか祖父との接点はなかった。看護する母は大変だったろうが僕は祖父の一挙手一投足が楽しかった。ぼけている祖父に僕との関係を説明するがなかなか理解できないようだった。
「じいちゃんの息子でYっているでしょ?」
「Y? Yはうちの子だよ」
「僕はYの子供なんだよ」
すると祖父は苦笑いして
「なんだかよくわからないなあ」
といった具合だった。平成十年に亡くなっている。
父方の祖母は八十二歳の時ガンで亡くなった。祖父が怠け者だったためにずいぶん苦労したそうだ。祖母との記憶は僕が小学校低学年の時までさかのぼる。新宿の公務員アパートに住んでいた頃で、白内障の手術を受けるために上京していた。
僕は学研のコラムに書いてあった卵料理を祖母のために作ろうとしたが、失敗してしまった。
「失敗しちゃった」
「なんでもいいから食べさせておくれ」
「でもおいしくないよ」
「うん、おいしい、おいしい」
そういって祖母は僕の失敗料理を食べてくれた。祖母にとっては孫が自分のために料理を作ってくれるということがうれしかったのだろう。けんちゃんはやさしい、やさしいといつもいっていたそうだ。この件は父もいたく気に入っていた。
母方の祖父母は旭川から少し北上した名寄という町に住んでいた。祖父との接点はほとんどなかったか覚えていない。遺影を見たことがあるくらいで実際にはあったことがなかったかもしれない。祖父の葬式が僕の初めての葬式デビューで、きっと涙を出さなければいけないのだろうと一生懸命泣こうとしたが涙は出なかった。
祖父は郵便局に勤めていた。名はAといい、昭和五十六年に亡くなった。喘息で亡くなったそうだ。僕がまだ小学校二年生の時である。父方よりは金銭的に余裕があったらしいが金持ちでもなかったらしい。
祖父母は七人の娘を作った。母は三女だった。父と同じ昭和十三年生まれだった。祖母はいつもリビングのソファに座っていた記憶が残っている。名前をMといい、平成五年に亡くなっている。どんな話でも、ああ、そうかい、そうかいといって聞いてくれる人だった。お年玉もずいぶんいただいた記憶がある。
祖母が亡くなるとき、僕は大学の一年生の夏休みで北海道をバイクでツーリングしていて、そのとき祖母が入院していたところに顔を出した。祖母は鼻やら口やらからチューブをつめ込められ、延命措置がとられていた。それはもう生きている祖母ではなかった。
僕はショックで泣き出してしまった。疲れているんだろうといって僕は祖母の家で休ませてもらった。葬式にも出た。平成五年のことだった。生きるっていったいなんだろうと思って鈴木健二の生き方の本を買った。