エッセイ180「爽やかな秋の香り」
気持ちのいい秋だった。僕は精神状態が良かった。だいたい春には精神状態がおかしくなった。そして秋は調子が良すぎるくらいだった。どんな人にも精神状態の変動があるのだろうが、僕の場合はそれが病的だった。秋や冬に調子が良くて、勉強や仕事をがんばりすぎてしまった。そのつけが春のうつにまわってくるのだった。
いずれにしても僕は小学生の頃から秋が好きだった。いい香りが外でして気持ちが良かった。その香りがキンモクセイのものであることを知ったのは、ずっと時間が流れて大人になってからだった。今でもキンモクセイの香りを嗅ぐと小学生の頃の秋を思い出した。空気もだんだん引き締まっていく中で、キンモクセイがバランスを取るように甘い香りを醸し出していた。
思えば小学生の頃から秋とキンモクセイの香りが好きだったのは、その時点でそううつ病の下地ができていたのかもしれなかった。とにかく僕は秋が好きだった。暑くなく、寒すぎない、ちょうどいい気候だった。
夏の終わり頃、精神的に落ち込んでしまってどうしようもないときがあった。今まで五回も自殺未遂をしていたが、その時もまた首吊り自殺をしたくなった。もう家族に迷惑をかけるわけにはいかないと思って、精神科に入院したい旨を家族に申し出た。承諾されて僕は入院した。
病院の環境はとてもじゃないがいいとはいえなかった。以前入院したことのある病院はできたばかりの新しい病棟で、一室四名だった。ところがその時の病院は築何十年かわからない古いもので、しかも一室に六名が詰め込まれていた。
精神を患っている人間が一室に六人も詰め込まれたら、当然気詰まりな雰囲気だった。病院ではすることがなにもなく、本を読む気にもなれなかった。同じ部屋の人間の小さな行動やかすかに立てる物音がいちいち気になった。僕はそこにいるのが嫌で仕方がなかった。
医師の入院計画書には二カ月をめどに投薬治療をするということが書いてあったが、とても二カ月なんてそこにはいられなかった。入院三日目に僕は退院したい旨を家族と看護婦に伝えた。退院は医師の診察を受けてからではいけなかったが、それは一週間も先のことだった。そんなに待つことはとてもできなかったので、外泊という形を取って僕は家に帰った。
三日間の外泊で精神状態がかなり良くなった。退院まであと二日で済んだ。退院までの二日間はとても気分良く過ごすことができた。以前のようにベッドに横になりっぱなしではなく、本を読んだり、音楽を聴いたり、文章を書いたりした。それだけしても病院の生活は暇で、時間がゆっくりと流れていった。
やっと退院することができた。わずか一週間の入院だった。自分から無理に退院した形となった。
退院後も精神状態はずっと良かった。それは今までとは薬ががらっと変わったことによるものだったのだろう。それまではうつ病の薬とそう病の薬、眠剤しか処方されていなかった。入院してからは何が何だかわからない数多くの薬を飲んでいた。そのころには薬を飲むことに対しての抵抗感は一切なくなっていた。
一日に朝食後、昼食後、夕食後、寝る前に四回薬を飲んでいた。薬中毒とか、薬物依存といった考えは一切なく、決められたときに当たり前のように薬を飲むことが習慣になっていた。
今までの薬が十分でなかったのだ。入院したときの薬で人が変わったように活動的に、明るくなった。人は薬で人格が変わることがよくわかった。
精神状態がいいことの理由のひとつに障害者年金を給付されることが決まったことがあった。何でも長く精神科にかかっていて、本人がそれを望むならば精神障害者として認定し、障害者年金を受けられるということだった。僕はその話にすぐに飛びついた。兄の友人に詳しく話を聞き、役所へ行けば書類をもらえることがわかったので、さっそく役所へ行き、説明を受けてから書類をもらって帰ってきた。
はじめの数カ月は書類を放っておいた。やはり自分から障害者になるということはとても勇気のいることだった。しかし、役所の職員や医師の説明を受けて障害者になる決意をした。利益こそあれども不利益はあまりなさそうだった。
障害者年金が支給されて「働かなければ」というプレッシャーがなくなった。それまではそのプレッシャーに追いやられる形で就職したり、アルバイトをしていた。金額は微々たるものだったが、細々と生活していけばなんとかなる金額だった。それに幸い僕は家族と同居していた。結婚するつもりもなく、一生親にパラサイトしていくつもりだった。
年金は一生もらうことができた。だから将来の心配をしないで済むようになった。これは精神衛生上とても良いことだった。
調子がいいことの原因の一つに好きなことばかりやれていることがあった。好きな時間に起きて好きな時間に寝ていた。したくないことは全くやらなかった。小説などの原稿を執筆をしたり、公募に応募したりしていた。義務というものが全くなかったので、本当に好きなことばかりやらせてもらっていた。
家族にとってはいい迷惑だったかもしれなかった。しかし、強迫観念に迫られて労働をしたりしてはプレッシャーがかかり、またすぐ死にたくなるので、それよりは健やかに僕が過ごしている方が家族にとっても安心できるに違いなかった。
映画を見るのも好きなことのひとつだった。僕はこれといって趣味らしいものがなかったので、映画を見ることを意図的に趣味にした。毎週一本ずつ映画を見た。見ただけでは忘れていってしまうので、「映画メモ帳」なるものを作成して、映画の内容や評価を書き込んでいった。評価はトリプルAからCまでで評価していった。
映画「タイタニック」はフォーAをつけたし、アクションものは大体がB程度だった。僕はアクションものをあまり好きではなかった。
病院や地域の自助グループに参加するのも楽しみのひとつだった。ひきこもり生活をしている僕にとっては、自助グループは唯一の社会参加の場であり、そこで自分の話をしたり、相手の話を聞いたりすることが楽しかった。
病院の自助グループは「社会復帰を目指す会」というシリアスのものから、アートセラピーといった絵画療法があった。アートセラピーは医療行為といった方が正しかった。地域の自助グループはひきこもり当事者が主催しているひきこもりのためのグループで、仲間意識があってとても楽しいものだった。まじめな話し合いをするときもあれば、遊びの企画を立ててみんなで遊んだりした。
しかし何といっても一番楽しかったのはやはり執筆活動だった。エッセイを書いて応募したり、小説を書いて応募したりしていた。将来的には物書きとしてデビューしたかった。障害者年金で生活が約束されているからこそ、じっくりと腰を据えて物書きに専念することができた。
僕は自分の意志で働かなくてもいい道を選択したのだった。僕の父親はサラリーマンだったが、僕はそれに反発してサラリーマンにはならないと高校の頃は思っていた。しかし大学に入ったら何となく乗せられて四年生の頃にはみんなと同じように就職活動をしていた。そして実際就職したわけだった。ただそううつ病という病気は想像外で、病気のせいで働かなくなるようになるなんて夢にも思っていなかった。
もし病気じゃなかったら働くことが楽しくて仕方がない人間になっていたのだろうか。その可能性はあった。僕は勉強が好きだからだ。社交性は元々なかったが、生真面目なので仕事は熱心にやるタイプだった。負けず嫌いで向上心が強いので出世競争をがんばっていたかもしれなかった。そんな人生も楽しいと思う。日の当たる人生だ。
ところが僕は病気で日陰の人生を送ることになった。でも日陰も悪くなかった。自由だし、風通しはいいし、ストレスがかからないし、紫外線を浴びないで済んだ。出世競争の努力をする普通の人の人生と、ほとんど努力というストレスを自分にかけないことを必要とする病人の人生。これは平等なのだろうか。
もちろん人生は生まれたときから不平等であることはわかっていた。しかし、努力した人が必ず幸福になって、そうでない人が不幸になるというほど単純でないことも事実だった。ではその努力とは何なのだろうか。一生懸命働いても報われないのでは努力しない方が得なのではないだろうか。
人生を損得勘定で考えてはいけないともいわれた。要するに本人の納得のいく人生が送れるかどうかだった。大根一本を一万円で買わされたらそれは損だ。しかしその大根がとてもおいしくて「ああ、なんておいしいんだあ。なんて幸せなんだあ」と思えたらその人の人生は成功なのではないだろうか。「成功」という言葉が不適切だったら「幸福」と言い換えても同じだった。
結局、普通に働ける人でも病人であっても幸福な人生を送れるかどうかは努力に比例せずに感受性に比例するということだった。ぐーたらしていたら罰が当たるなんていうが、実際には当たらないわけだった。当たったとしてもその人の人生の幸福度に影響を与えない罰だった。それなら僕は喜んでぐーたらライフを選択する。
好きなことだけをする。ストレスのかかることはしない。これは病気を悪化させるので本当にいけないのだった。
その分、負の面もあった。まず障害者年金では人ひとりが生きていくだけで精一杯の額だった。だから結婚して嫁を養っていくというのはまず無理だった。相手に自活してもらわなければ結婚はできなかった。また、子供を持つという夢も叶わなかった。これも奥さんに養ってもらわなければならなかった。
お金を稼いでこない父親だった。母子家庭に男が転がり込んできたという感じになるのか、主夫になるかだった。頭の固い僕にはこんなことはできそうになかった。第一に子どもを欲しいとは思っていなかった。
人間は誰でも気分の浮き沈みはある。それは三日周期だとされている。取り組んだことにすぐに飽きてしまう、いわゆる三日坊主と呼ばれるものがこれにあたる。だから三日坊主は当たり前なのだといえる。しかし問題はその振幅だった。高校の時に習った三角比を例に考えた。サイン、コサイン、タンジェント、というものを勉強した。
サインカーブを思い描く。波形の曲線だ。X軸方向に波が進んでいる。Y軸方向が振幅だった。この振幅が普通の人は小さいのだった。あまりX軸から離れない。つまり精神的に安定しているということになる。ところがそううつ病は振幅が異常に大きい。日常生活を普通に営めないくらいだった。だから病気なのだ。
Y軸のプラスの方をそう状態という。気分がいい。気分がハイになりすぎて問題行動を起こしてしまう。僕の場合はそう状態は軽く、少し本を買う量が多くなったり、いろんなことを始めてみたりする。体を鍛えるためにサンドバッグを買ったり、ボクシングジムを探したりした。でもそうの時期が終わってしまうとそんなことはどうでもよくなり、サンドバッグも使われずにほこりをかぶっていた。しかしこんなことは普通の方でもあるのではないだろうか。僕は
一応そううつ病ということになっているが、ただのうつ病に近いそううつ病なのではないかと思っている。
Y軸のマイナスの方をうつ状態という。気分は最悪だ。何もする気が起きない。一日中寝てばかりいる。思考力も減退して、毎日が憂うつでたまらない。ひどいときには自殺念慮もあった。僕はこちらの方が多かった。グラフでいうと、サインカーブをY軸に対してマイナス方向にずらしたような感じだった。学校の勉強なんて社会に出たら全く役に立たないなんていわれているが、こんなところで役に立っている(笑)。
だから僕の場合はしんどいことが多かった。そう状態の時にしたことで後悔することはあまりなかった。せいぜい買った本が山積みになってどうしようかと思うくらいだった。うつ状態になったら調子が悪いことを家族に伝え、早めに入院することを心がけていた。死んでしまってはどうにもならない。調子が悪いと思ったらまず入院することだ。入院すると今度は早く退院したくなる。退院するとぐっと調子が良くなった。やはり休養の賜物だろうか。
そううつ病は反復する傾向が強い。この病気とは一生付き合っていかなければいけないと思っていたし、そんな自分を受け入れることができていた。