エッセイ171「らくちん家庭教師」
家庭教師のトライで、ネットで申し込むと次の日には電話がかかってきてさっそくやって欲しいということになった。
時給は千六百円くらいだった。一日あたり九十分なので二千五百円ほどもらっていた。週三回だったので月当たり三万円ほどもらえた。交通費ももらえた。仕事はとても簡単だった。学習塾の通信教材を取っていたのでそれを毎回いっしょに勉強させるといった感じだった。
本来自分一人でやるものだったが、その子は落ち着きがなく勉強に集中しなかった。
最初の授業の時はどう接していいのか分からず、本来八時前には終わるはずだったのだが九時頃までかかった。生徒が寝てしまったのである。仕方がないので僕はその子の算数のドリルを解いてあげていた。
家庭教師を雇うくらいなのでその家庭は裕福だった。お父さんは司法書士をやっていた。ジャガーやらBMWやら、高級外車を三台くらい持っていた。お父さんも双子のその子たちも重度の肥満体だった。双子のもう一人を教えていたのは千葉大の学生だった。特に仲良くなったわけではなかった。
九十分の授業を四十五分で前半と後半に分けて、間に三十分くらいの休憩を取った。飲み物とおやつを毎回出された。大してお金にはならなかったが楽な仕事だったので向こうから辞めてくれといわれるまでやろうと思っていた。やはり対人恐怖症は治っていなかったので人の家に上がり込むということがストレスになった。出かける前にはやはり二本たばこを吸わなければ落ち着かなかった。
勉強は国語・算数・理科・社会の四科目で、テキストを読んで問題演習をするというパターンだった。そんな簡単なことなのにAくんは一人ではできなかった。国語の問題文を読むのも嫌がって
「先生読んで、おねがい」
などという甘えたことをいった。漢字の練習をさせるのにもいちいち読み方を教えなければならなかった。
算数は小学生にはちょっと難しいかな、といったレベルのテキストだった。でも中学入試をするといっていたのでそのくらいは解けなければならなかった。本棚には開成中学の過去問題集が置いてあって、
「パパといっしょに通学するんだ」
といっていた。とても開成などには及ばない学力だった。
理科は簡単だったので教えるほうも楽だった。社会もテキストを読んでその中から答えを探すといった程度だったので簡単だった。
「これは本来一人で勉強する教材なんだよ」
といってもそんなことはない、といいはった。
あまりにも集中力がなく、僕が横にいるそばから居眠りをするようなふてぶてしい子供だった。初めは無理矢理起こして勉強をさせていたが、どうせ勉強しないで困るのはAくんなので放って置くことにした。Aくんが寝ている横で僕は自分の本を読んでいた。今でも覚えている。『話を聞かない男、地図を読めない女』と『金持ち父さん 貧乏父さん』だった。
学校の宿題やテスト対策もやった。本当に落ち着きのない子で、ボールペンを好きだという変な子だった。
休憩時間は双子が仲良く遊んでいた。それに千葉大の先生もつき合っていた。本当に子供が好きらしくて、教職免許を取って教師になるといっていた。
月に一回は学習塾に送るマークシートのテストがあった。極力教えないようにしたが、
「先生、お願い」
といわれる始末だった。
その家庭は夏休みになるとアメリカのディズニーランドへ行ったりして、お金をかなり使い込んでいた。司法書士がそんなに儲かるとは思えなかったが、子供の話によると父親が不当に高い手数料を取っているとのことだった。
「これ、パパが教えてくれたの」
といってトランプでイカサマをする方法を教えてくれたりした。それを見て、腹黒い商売をして金儲けしているのだなと思った。要するに土地転がしだったのだろう。
結局、家庭教師は十カ月続いた。僕の労働体験では一番長いものだった。しかし、六年生になってから塾に通うということで契約が切れた。Aくんがお別れのお礼に僕にプレゼントをくれた。ミラショーンの財布だった。日曜日に新宿へ行って父親と買ってきてくれたという。お金持ちから財布をもらうと自分も金持ちになる、といったことを聞いていたのでそれを今も大事に使っている。そのせいか未だにお金に困ったことはない。
開成に合格したら電話するね、といっていたが未だに電話は来ていない。きっと裏口入学でどこか私立の中学校へ進学したのだろう。
家庭教師のTは事務の仕事を学生にやらせていた。不手際が多く、僕がバイトを辞めさせられるということを聞いたのはたった六日前のことだった。労働基準法に違反すると思って腹立たしかった。五歳くらい年下の学生に使われているようで気分が悪かった。不手際の件を話すと、向こうもお抱え弁護士を出してきて「法律上は特に問題はない」
といってきた。
僕は本当に裁判をするつもりで、その旨の文書を家庭に持ち込んだ。母親が
「でもこの子たち受験生ですし」
というのに対し、
「ご家庭にはご迷惑をおかけしません。家庭教師のTのほうを訴えるつもりです」
と話した。市の無料弁護士相談がある日程を調べて相談しようとまで思ったが、ネガティブなことでいつまでも腹を立ててはつまらないと思って結局やめてしまった。
そこの母親は美人だった。一方で父親は肥満で不細工だった。明らかに母親はお金目当てで結婚したなとわかった。
父親は独立して新宿に司法書士事務所を構えているという。かなり後になってひまでどうしようもなくて、そこの家庭を見に車で行ったことがあった。すると以前のジャガーはなく、古めかしい車が置いてあった。父親の詐欺まがいの商売のつけが回ってきたのだろうと思った。
僕は家庭教師の経験でわかったことがある。それは頭のいい人間とお金持ちの人間は別だということだ。知り合いにたった二年で司法試験に合格して、弁護士になった人がいる。でもその人は開業していないので特に羽振りがよくなったわけでもなかった。正直者は損をする、悪賢い人間が金持ちになるということを学んだ。