エッセイ189「受難の留年時代」
青山学院への入学はなかなか受け入れがたいことだった。プライドが妙に高かった僕はなんで自分が青学なんかに入らなければならないんだと思っていた。それでも無理して学校へ通った。しかし中野から厚木キャンパスへ行くには二時間もかかり、通うのが不便でだんだんいかなくなっていった。
僕は学校の近くにアパートを借りてくれるものだと思っていたのに、父親は「浪人の時だけお世話になって、受かったらはい、さよならなんてことがあるか!」といわれた。結局父は中野のおばあさんが好きだったのである。サークルへも入らなかった。
サークルに入らないと昼食をとる席すらなかった。こいつらとは僕は違うんだという反発意識もあり、友達もつくらなかった。そんな状態で前期の途中頃までには大学には通わなくなっていた。親に対して悪いからいかなきゃならない、けどいけないといった板挟みの状態で苦しんでいた。
死にたいとまで思い詰め、果物ナイフを買ってきて手首を切ってみようとしたが、ちょっと力を入れただけで痛かったし、死にきれずに指が動かない状態になったら嫌だと思い、諦めた。人生で二度目の自殺未遂だった。
夏休みはいきたくもないのに父親にバイクで北海道を一周しろといわれた。高校の時はバイクのレーサーになりたいと思っていたのに、バイクに乗ってもちっとも楽しくなかった。それでもなぜか高校の友人と日本列島をバイクで縦断していた。
後期が始まる少し前に両親に大学へは通っていないこと、精神がおかしいので精神科へ行きたいことを話した。それからは病院に隔週で行き、薬をもらって飲んでいた。僕は「精神の耗弱状態」と診断された。両親には公に学校へ通わないことを許され、次の年の四月まで治療に専念した。
翌年の四月、治ったのか治っていないのかわからずにとにかく大学に行かなければならなかった。浪人して留年、なんて最悪なんだと思いながら下宿で生活していると、父から電話がかかってきて帰ってきて説明しろ! といわれた。車の駐車違反とバイクのスピードオーバーで警察から免許停止の文書が実家に行ったのである。
いきたくもない大学で留年して、おまけに恐ろしい父が激怒していた。僕は神に見放されたと思った。死のう、と思った。下宿で死ぬのは他の人に迷惑になるから外で死のう、程々に人がいて発見されやすいところ、代々木公園で死のうと決めた。『完全自殺マニュアル』にどんな薬でも二百錠飲めば死ねると書いてあったので、通院中にもらって飲みきれなかった向精神薬とウイスキーを持って人気のないところに腰を下ろした。
ウイスキーがひどくまずかったが薬を胃の中に流し込んだ。何回かに分けて結局全部飲み干した。横になってみた。意識がなくなるのかと思ったらなくならなかった。まだ春先でだんだん気温が下がってきた。暖かいところで死にたい、下宿の布団にくるまりたい、と思って起きあがった。足の感覚がなく、ふわふわ浮いているような状態だった。
それでもきちんと切符を買って下宿まで帰って横になることができた。ああ、とか、うう、とかいった声が聞こえたのだろう。僕が気を失っている間に通っていた大学病院に運ばれていた。もうろうとした意識の中で「学校に行かなくちゃ」といって起きあがった。いいからいいから、と僕はベッドにゴムか何かでくくりつけられた。何日かして閉鎖病棟へ解放された。三週間入院して、その年は休学することになった。人生で三回目の自殺未遂だった。