エッセイ155「聖書に求めるもの」
僕はクリスチャンではないが聖書をよくひもとく。毎日ホームページに日記を書いているが、その最後に「今日のお言葉」と題して聖書や仏教聖典から言葉をもらってくる。聖書はなかなか有益な文章に出会えないが(こちらの能力不足かもしれない)、素敵な文章を見つけては日記に書いている。
大学は不本意入学だったが、たまたまキリスト教系の学校だった。礼拝に出るのが好きだった。僕の聖書は人に見せるのには恥ずかしいくらい蛍光ペンで線を引いている。読破しようとして大学休学時代に読み耽り、読んだところはマーカーで潰していった。新約はすべて読んだが、旧約はあまり読めなかった。全体の三分の一程度しか読んでいない。
僕が聖書や仏教聖典を読むようになったのは高校生の頃からである。中学校では僕はスターだった。運動もよくできるし、勉強もできる。学級委員長を二期務めていたこともある。女子からも男子からも人気があった。しかし、それは井の中の蛙であった。都立でトップの高校に進学し、自信を失った。自分より運動も勉強もできる人間がゴロゴロいたからである。
そこで僕のアイデンティティーは崩壊した。これからどうやって生きていったらいいのかわからなかった。素直に勉強する気も起きず、授業中は分厚い本を読んで過ごしていた。
そんなとき、教会へ行けば何かがわかるかもしれないと思った。クラスのクリスチャンの友人に教会に連れていって欲しいと頼んだ。友人は僕の家の近くの教会へ行き、僕を紹介してくれた。それからはひとりで教会に行くようになった。日曜日の朝の礼拝に寝坊して途中から参加したことを覚えている。献金を毎週百円しか出せなかったことも懐かしい。
何より楽しかったのは教会の子供が同い年で、礼拝のあとにキャッチボールをしたり、おしゃべりをしたりしたことだった。
夏休みはサマーキャンプに参加した。勉強半分、遊び半分だった。とても楽しい思い出である。教会へは高校二年生の一年だけ通った。三年生になって勉強が忙しくなり、教会へは行かなくなっていた。教会の友人が何度も電話で誘ってくれたが、それどころではなかった。
結局、どうやって生きていけばいいかという問いに教会は答えを出してはくれなかった。自分自身で出すものなのかもしれない。受験勉強のためにその悩みは一時棚上げし、大学に入ってから考えることになった。大学でもその答えはわからなかったが、そんなことは考えてはいけないという結論に達した。
新約だけでもまた読み返してみたいと思っている。
大学は不本意入学だったが、たまたまキリスト教系の学校だった。礼拝に出るのが好きだった。僕の聖書は人に見せるのには恥ずかしいくらい蛍光ペンで線を引いている。読破しようとして大学休学時代に読み耽り、読んだところはマーカーで潰していった。新約はすべて読んだが、旧約はあまり読めなかった。全体の三分の一程度しか読んでいない。
僕が聖書や仏教聖典を読むようになったのは高校生の頃からである。中学校では僕はスターだった。運動もよくできるし、勉強もできる。学級委員長を二期務めていたこともある。女子からも男子からも人気があった。しかし、それは井の中の蛙であった。都立でトップの高校に進学し、自信を失った。自分より運動も勉強もできる人間がゴロゴロいたからである。
そこで僕のアイデンティティーは崩壊した。これからどうやって生きていったらいいのかわからなかった。素直に勉強する気も起きず、授業中は分厚い本を読んで過ごしていた。
そんなとき、教会へ行けば何かがわかるかもしれないと思った。クラスのクリスチャンの友人に教会に連れていって欲しいと頼んだ。友人は僕の家の近くの教会へ行き、僕を紹介してくれた。それからはひとりで教会に行くようになった。日曜日の朝の礼拝に寝坊して途中から参加したことを覚えている。献金を毎週百円しか出せなかったことも懐かしい。
何より楽しかったのは教会の子供が同い年で、礼拝のあとにキャッチボールをしたり、おしゃべりをしたりしたことだった。
夏休みはサマーキャンプに参加した。勉強半分、遊び半分だった。とても楽しい思い出である。教会へは高校二年生の一年だけ通った。三年生になって勉強が忙しくなり、教会へは行かなくなっていた。教会の友人が何度も電話で誘ってくれたが、それどころではなかった。
結局、どうやって生きていけばいいかという問いに教会は答えを出してはくれなかった。自分自身で出すものなのかもしれない。受験勉強のためにその悩みは一時棚上げし、大学に入ってから考えることになった。大学でもその答えはわからなかったが、そんなことは考えてはいけないという結論に達した。
新約だけでもまた読み返してみたいと思っている。