賢の半生記⑤/8
賢の半生記⑤/8
高校時代
勉強
平成元年に予定通り晴れて都立T高校に入学した。都立では西、日比谷と並んでトップ校だった。兄がワンランク下の都立S高校出身だったので晴れ晴れとした思いだった。Tは特別な教科書を使うでもなく、ごく当たり前の授業が展開された。しかしその早さがすごかった。文理志望関係なく社会も理科も四科目ずつ必須だった。文系の人は数学で苦労したようだった。僕は理系だったので日本史と世界史に悩まされた。三年生の期末試験まで日本史を勉強せねばならず、テストで九点しかとれなかったことが記憶に新しい。文系理系の区分は三年生になってからで、それも一部の授業にしか適用されなかった。
新宿区、渋谷区、世田谷区、目黒区から精鋭が集まってきていた。他の生徒の勉強の熱心さはすごいものがあった。一年の一学期の中間試験で僕は漢文で零点をとった。それがクラスメイトに面白がられて今でもたまに飲みに行く高校の友人連中のいいお笑いぐさになっている。中間試験ではクラス四十八人中四十七位だった。これが僕の落ちこぼれ人生のスタートであった。今までは公立中学校でトップクラスの成績を取っていた僕だったが、高校では自分より勉強もできてスポーツもできる人間がゴロゴロいた。僕はすっかり勉強に対してやる気を失った。授業中も分厚い本を読んで過ごした。女の子から勉強しなくて大丈夫? と心配された。自分のアイデンティティーって何だろうとものすごく思い悩んだ。そこで問題を解決してくれるような本を読みあさったが決定的なものはなかった。
友人がクリスチャンであることから教会を紹介してほしいと頼んだ。キリストの教えを学べば問題が解決するのではないかと考えたのである。そこで礼拝を受けたり、会話をして楽しい時を過ごしたが、人生をいかように生きるべきかという問題に関してはあまり触れられなかった。聖書も読んだがそこから解決の糸口を見つけることはできなかった。教会へは二年生の一年間だけ通った。
そうこうしているうちに学校をさぼるようになっていった。時間通りに学校へ行くふりをしてドトールでコーヒーを飲んで時間をつぶしたり、代々木公園まで自転車で行ってベンチに座ってたばこを吸ったりした。ずいぶんさぼったつもりだったが、学年末の通知表には欠席が十日しかなかった。それでも父はひどく怒ってマヨネーズを顔に投げつけられた。そこで僕はバイクのレーサーになりたいと初めて告白した。まだ免許も持っていなかったし、バイクに乗ったことがなかったので憧れにしかすぎなかった。開成高校に入学したとKいういとこがいた。父はKを引き合いに出して、あいつがやっていることはばかげているというのか! と怒鳴った。大学受験のために青白い顔をしてがんばっているやつがいるんだぞ! と勉強至上主義を主張した。
僕は悩みに悩んだ。結局将来の問題は大学に入ってから考えるしかないという結論に達した。大学に入ってからではバイクのレーサーなどになれるわけもないとも思っていた。そして僕の遅すぎる勉強がスタートした。一応二年の時から駿台予備学校へは通っていたことは通っていたが、予習もせず、復習もしないで成績が上がるはずもなかった。何とか数学や英語が楽しいと感じられるようになっていった。数学とF1レースが好きだったので何ら迷うことなく機械工学科を目指した。兄もWに受かっていたし、親戚でW出身が多かったので、僕もWの理工を目指した。
遅れを取り戻すために僕は「数学は暗記だ!」という書籍を読んで要領を得た。和田秀樹という受験研究家は中学で灘校に入り、落ちこぼれていたが高校一年の時から要領のいい勉強法を展開して見事東大医学部に入学していた。僕は和田秀樹の熱心な信望者として、彼の受験参考本をほとんど読んでいた。しかし勉強のノウハウにも限界があった。和田式勉強法をマスターした僕だったが、勉強のスピード、記憶の定着、時間的制約などがあり、和田氏のような一発逆転劇は訪れなかった。それでも三年生の時の実力試験では五十位に食い込んだ。一学年が四百二十人だったので大躍進だった。担任の水谷先生に「ようやく実力発揮ね」といわれたが、僕はまだまだです、と答えた。もっと上を狙っているという意味だった。
大学受験本番が始まった。僕は早稲田と東京理科大と武蔵工業大を受験した。
あまり解けた感じはしなかった。特に理科大は全く勉強したことが通用しなかった。雪の日で野田の試験会場へ行く途中でちょっと足を滑らせた。まさかとは思ったが落ちていた。早稲田はとにかく微分方程式が必ず出ると予備校の直前講座でいわれていたので、そこだけは得点しようと思っていた。早稲田の合格発表の日はちょうど自動車教習のために福島県まで合宿に行っていたので、わざわざ新幹線で自分の目で試験結果を見に行った。落ちていた。近くの電話ボックスで父親に電話を入れた。父は怒ることなく、「そうか」と気持ちを汲み取ってくれた。武蔵工大は滑り止めのつもりで受験したのだが、なんとここも落ちてしまった。試験会場ではできたという感触があった。それだけにショックだった。
浪人が決定した。Tでは文武両道で、高校生活は部活や文化祭に全力投球して、勉強は浪人してから、という風潮があった。実際学年の九割が浪人した。女の子でも浪人する子が多く、勉強にも全力投球し、恋愛をしている人は割と少なかった。
学校行事
学校行事に関してはあまりいい記憶はない。部活はアメリカンフットボール部に入部した。中学ではバレーボールが楽しかったが、高校ともなるとネットの高さがぐんとあがるし、百七十センチそこそこの僕では通用しないと考えた。そこで今までやったことのないスポーツをしてみたいと思い、ラグビーにするかアメフトにするか迷った。結局防具をつけて安全そうでかっこいいアメフト部に入部した。部では新入生歓迎ということで学校の近くのピザ屋さんで先輩たちにおごってもらった。大学ではこういったことは珍しくないが、当時の高校ではそれはすごく画期的なことで、ピザもおごってもらったし、という理由で入部したような感じだった。
防具はすべてそろえて十万円ほどした。当然親に出してもらった。後々僕が部活をやめることになったときに、ただで他の人に譲ったことがあり、父に叱られた。ヘルメットは僕の頭の形がいびつなせいか、サイズを合わせてもきつくて仕方がなかった。練習はそうきついものではなかった。小学校の野球部で培った筋力が功を奏した。
一年生でスタジアムジャンパーを作ろうという話が持ち上がった。確かに先輩たちが着ていて格好はよかったのだが、三万円もするという。親に反対された。
アメフトは体力も必要だったが、知力も必要だった。ルールも全くわからずに入部した僕にはフォーメーションなども全く理解できなかった。文化祭の表彰委員長を務めたおかげで練習も満足にできなかった。したいとも思わなかった。夏の合宿には参加した。僕はディフェンス側のセーフティーというポジションを与えられた。相手のパスプレーを阻止するのが役割だった。
秋口になってろくに練習にも参加できないことからキャプテンに辞めさせてもらいたいと申し出た。キャプテンは残念そうだったが「そうか」としかいわなかった。
部活の練習に参加できなかったのは一年生の時に文化祭の表彰委員長を務めたことが大きかった。委員長を決定する会議でだれも挙手する人がいなくていらついて僕が名乗り出た。それがいけなかった。一年生でなにもかもわからずに委員長を務めたものだから、三日連続で三時間睡眠という悲惨な状態だった。勉強する時間もなく、表彰委員長は僕の人生を狂わせた原因であるともいっていい。仕事の内容は文化祭で発表される出し物を公正な目で見て、グランプリを決定するというものだった。うかつに手を挙げなければよかったと今でも思っている。
一方、クラスの方でも文化祭のテーマが僕の出した案が採択され、クラスメイトの前で何度も案の趣旨を述べなければならなかった。このころはストレスで胃酸過多になっていて学校のトイレで何回も吐いた。つらい時期だった。
そんな中好きな人もできた。何人もの人にアタックするがすべて却下だった。恵美というあまり美形ではない女の子を好きになって電話アタックをするが、なかなか首を縦に振ってくれない。それでも一緒に映画を見に行くことができた。別れ際に告白したがあっさりと断られた。勉強のできる子でお茶の水女子大に現役合格している。三年間で五人くらいの女の子にアタックしたがすべて断られた。中には相手が僕を知らない人もいて、わざわざ僕のクラスに「さるくんってどんな人?」と聞きに来る人もいた。
とにかく高校時代は忙しく、辛く、大変な時期だった。
高校時代
勉強
平成元年に予定通り晴れて都立T高校に入学した。都立では西、日比谷と並んでトップ校だった。兄がワンランク下の都立S高校出身だったので晴れ晴れとした思いだった。Tは特別な教科書を使うでもなく、ごく当たり前の授業が展開された。しかしその早さがすごかった。文理志望関係なく社会も理科も四科目ずつ必須だった。文系の人は数学で苦労したようだった。僕は理系だったので日本史と世界史に悩まされた。三年生の期末試験まで日本史を勉強せねばならず、テストで九点しかとれなかったことが記憶に新しい。文系理系の区分は三年生になってからで、それも一部の授業にしか適用されなかった。
新宿区、渋谷区、世田谷区、目黒区から精鋭が集まってきていた。他の生徒の勉強の熱心さはすごいものがあった。一年の一学期の中間試験で僕は漢文で零点をとった。それがクラスメイトに面白がられて今でもたまに飲みに行く高校の友人連中のいいお笑いぐさになっている。中間試験ではクラス四十八人中四十七位だった。これが僕の落ちこぼれ人生のスタートであった。今までは公立中学校でトップクラスの成績を取っていた僕だったが、高校では自分より勉強もできてスポーツもできる人間がゴロゴロいた。僕はすっかり勉強に対してやる気を失った。授業中も分厚い本を読んで過ごした。女の子から勉強しなくて大丈夫? と心配された。自分のアイデンティティーって何だろうとものすごく思い悩んだ。そこで問題を解決してくれるような本を読みあさったが決定的なものはなかった。
友人がクリスチャンであることから教会を紹介してほしいと頼んだ。キリストの教えを学べば問題が解決するのではないかと考えたのである。そこで礼拝を受けたり、会話をして楽しい時を過ごしたが、人生をいかように生きるべきかという問題に関してはあまり触れられなかった。聖書も読んだがそこから解決の糸口を見つけることはできなかった。教会へは二年生の一年間だけ通った。
そうこうしているうちに学校をさぼるようになっていった。時間通りに学校へ行くふりをしてドトールでコーヒーを飲んで時間をつぶしたり、代々木公園まで自転車で行ってベンチに座ってたばこを吸ったりした。ずいぶんさぼったつもりだったが、学年末の通知表には欠席が十日しかなかった。それでも父はひどく怒ってマヨネーズを顔に投げつけられた。そこで僕はバイクのレーサーになりたいと初めて告白した。まだ免許も持っていなかったし、バイクに乗ったことがなかったので憧れにしかすぎなかった。開成高校に入学したとKいういとこがいた。父はKを引き合いに出して、あいつがやっていることはばかげているというのか! と怒鳴った。大学受験のために青白い顔をしてがんばっているやつがいるんだぞ! と勉強至上主義を主張した。
僕は悩みに悩んだ。結局将来の問題は大学に入ってから考えるしかないという結論に達した。大学に入ってからではバイクのレーサーなどになれるわけもないとも思っていた。そして僕の遅すぎる勉強がスタートした。一応二年の時から駿台予備学校へは通っていたことは通っていたが、予習もせず、復習もしないで成績が上がるはずもなかった。何とか数学や英語が楽しいと感じられるようになっていった。数学とF1レースが好きだったので何ら迷うことなく機械工学科を目指した。兄もWに受かっていたし、親戚でW出身が多かったので、僕もWの理工を目指した。
遅れを取り戻すために僕は「数学は暗記だ!」という書籍を読んで要領を得た。和田秀樹という受験研究家は中学で灘校に入り、落ちこぼれていたが高校一年の時から要領のいい勉強法を展開して見事東大医学部に入学していた。僕は和田秀樹の熱心な信望者として、彼の受験参考本をほとんど読んでいた。しかし勉強のノウハウにも限界があった。和田式勉強法をマスターした僕だったが、勉強のスピード、記憶の定着、時間的制約などがあり、和田氏のような一発逆転劇は訪れなかった。それでも三年生の時の実力試験では五十位に食い込んだ。一学年が四百二十人だったので大躍進だった。担任の水谷先生に「ようやく実力発揮ね」といわれたが、僕はまだまだです、と答えた。もっと上を狙っているという意味だった。
大学受験本番が始まった。僕は早稲田と東京理科大と武蔵工業大を受験した。
あまり解けた感じはしなかった。特に理科大は全く勉強したことが通用しなかった。雪の日で野田の試験会場へ行く途中でちょっと足を滑らせた。まさかとは思ったが落ちていた。早稲田はとにかく微分方程式が必ず出ると予備校の直前講座でいわれていたので、そこだけは得点しようと思っていた。早稲田の合格発表の日はちょうど自動車教習のために福島県まで合宿に行っていたので、わざわざ新幹線で自分の目で試験結果を見に行った。落ちていた。近くの電話ボックスで父親に電話を入れた。父は怒ることなく、「そうか」と気持ちを汲み取ってくれた。武蔵工大は滑り止めのつもりで受験したのだが、なんとここも落ちてしまった。試験会場ではできたという感触があった。それだけにショックだった。
浪人が決定した。Tでは文武両道で、高校生活は部活や文化祭に全力投球して、勉強は浪人してから、という風潮があった。実際学年の九割が浪人した。女の子でも浪人する子が多く、勉強にも全力投球し、恋愛をしている人は割と少なかった。
学校行事
学校行事に関してはあまりいい記憶はない。部活はアメリカンフットボール部に入部した。中学ではバレーボールが楽しかったが、高校ともなるとネットの高さがぐんとあがるし、百七十センチそこそこの僕では通用しないと考えた。そこで今までやったことのないスポーツをしてみたいと思い、ラグビーにするかアメフトにするか迷った。結局防具をつけて安全そうでかっこいいアメフト部に入部した。部では新入生歓迎ということで学校の近くのピザ屋さんで先輩たちにおごってもらった。大学ではこういったことは珍しくないが、当時の高校ではそれはすごく画期的なことで、ピザもおごってもらったし、という理由で入部したような感じだった。
防具はすべてそろえて十万円ほどした。当然親に出してもらった。後々僕が部活をやめることになったときに、ただで他の人に譲ったことがあり、父に叱られた。ヘルメットは僕の頭の形がいびつなせいか、サイズを合わせてもきつくて仕方がなかった。練習はそうきついものではなかった。小学校の野球部で培った筋力が功を奏した。
一年生でスタジアムジャンパーを作ろうという話が持ち上がった。確かに先輩たちが着ていて格好はよかったのだが、三万円もするという。親に反対された。
アメフトは体力も必要だったが、知力も必要だった。ルールも全くわからずに入部した僕にはフォーメーションなども全く理解できなかった。文化祭の表彰委員長を務めたおかげで練習も満足にできなかった。したいとも思わなかった。夏の合宿には参加した。僕はディフェンス側のセーフティーというポジションを与えられた。相手のパスプレーを阻止するのが役割だった。
秋口になってろくに練習にも参加できないことからキャプテンに辞めさせてもらいたいと申し出た。キャプテンは残念そうだったが「そうか」としかいわなかった。
部活の練習に参加できなかったのは一年生の時に文化祭の表彰委員長を務めたことが大きかった。委員長を決定する会議でだれも挙手する人がいなくていらついて僕が名乗り出た。それがいけなかった。一年生でなにもかもわからずに委員長を務めたものだから、三日連続で三時間睡眠という悲惨な状態だった。勉強する時間もなく、表彰委員長は僕の人生を狂わせた原因であるともいっていい。仕事の内容は文化祭で発表される出し物を公正な目で見て、グランプリを決定するというものだった。うかつに手を挙げなければよかったと今でも思っている。
一方、クラスの方でも文化祭のテーマが僕の出した案が採択され、クラスメイトの前で何度も案の趣旨を述べなければならなかった。このころはストレスで胃酸過多になっていて学校のトイレで何回も吐いた。つらい時期だった。
そんな中好きな人もできた。何人もの人にアタックするがすべて却下だった。恵美というあまり美形ではない女の子を好きになって電話アタックをするが、なかなか首を縦に振ってくれない。それでも一緒に映画を見に行くことができた。別れ際に告白したがあっさりと断られた。勉強のできる子でお茶の水女子大に現役合格している。三年間で五人くらいの女の子にアタックしたがすべて断られた。中には相手が僕を知らない人もいて、わざわざ僕のクラスに「さるくんってどんな人?」と聞きに来る人もいた。
とにかく高校時代は忙しく、辛く、大変な時期だった。