賢の半生記④/8
賢の半生記④
中学校時代
勉強
僕は新宿区立Y中学校に進学した。一学年百人ほどの小さめな公立校中学校だった。だいたいY第一小学校と第七小学校の児童がそのまま進学する中学校だった。Y七小学校でも中学受験をする児童が何人かいて、僕も中学受験をしたい、と一度親にいったことがあったが却下され、僕もどうでもよくなってしまった。筑波大付属駒場中学校に受かったやつもいた。
中学校に上がると勉強がとても難しくなると聞いていた。だから兄も通っていた生井塾という小さな塾に通いたいと親に申し出た。古びたアパートの一室でまずアルファベットを書くようにといわれた。今まで英語とローマ字の区別さえつかなかった僕は半分程度しか書くことができなかった。解答を見せられて全部覚えて、といわれた。この時点では僕の英語力が後にどれほどすごいものになるかなど全く想像がつかなかった。
生井塾では英語と数学を学んだ。英語は生井先生が大量のプリントを使って指導し、数学は安原先生という、早稲田大学教育学部数学科前期博士課程の先生がアルバイトで指導をした。
はじめは英語がよくわからなかった。授業中に先生に指されてよくわからない受け答えをして他の生徒に笑われたこともあった。しかし中学一年生の途中から堰を切ったようにわからないところが解決して、英語が得意科目になった。
学校の英語の時間に将来何になりたいかとクラス全員がこたえて、僕は英語の先生になりたいとこたえた。塾の一番レベルの高いクラスに入って模擬試験でも一番に定着した。数学もトップクラスに在籍して好成績を修めた。
塾は楽しかったという印象が強い。友人の功がいたし、僕ら生井塾の生徒が好成績を修めていることをうらやましがって中学の四分の一くらいの生徒が生井塾に入った。
一年生の終わり頃に学校で実力テストがあった。僕は自分の実力を全く知らず、何も考えずに試験を受けた。試験結果が返ってきたが僕には最初は理解不能だった。一とか二とか三しかなかった。疑問に思って同じ生井塾で「天才くん」というあだ名のついている信吾のところへ結果を見に行った。すると僕のよりも大きな数字がならんでいた。そこで僕はやっと理解した。三科目男女別で一位、三科目総合で二位、五科目総合で三位だったのである。そこで初めて自分の能力の高さに気がついた。何よりも嬉しかったのは東大受験を口外している浩士くんを押さえて三科目トップになったことだった。
二年生の終わり頃に進路指導の三者面談があった。僕は志望校記入欄の第一志望に筑波大付属駒場高校、第二志望に筑波大付属高校、第三志望に学芸大付属高校、第四志望に早稲田大学高等学院、第五志望に都立T高校、と書いた。僕は恐れを知らなかった。担任の鈴村先生に第一から第三はちょっと厳しいので、早稲田学院とTを受けなさいといわれた。それで悔しかったわけでもなく、まあそんなところかと納得した。
生徒は何かの委員会に所属しなければならなかった。前期後期の三年分で計六期あった。そのうち僕は四期分を学級委員に選ばれた。さらに三年生の二期分は学級委員長を務めた。そのため先生からの評判がよく、内申点の三点アップを担任から示唆された。これでT高校の合格は確実になった。
T高校を本命として、チャレンジ校に早稲田学院、滑り止めに専修大付属高校を受験することにした。
早稲田学院は倍率が六倍で、一次試験の三科目筆記試験で三分の一に絞られ、二次試験の論文と面接でさらに二分の一に絞られた。過去問題集をやって七割弱解けたのでもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。会場は早稲田大学だった。一緒に受験した朋寛くんは数学が得意でほとんどできたと休み時間にいっていた。僕は過去問通りくらいの出来だった。
合格発表の日、家族で車で見に行こうとすると道の途中で朋寛くんが歩いているのを見つけた。これから見に行くというから一緒にいこうと誘って車に乗せた。あまり受かるとは思っていなかったが、掲示板を見てびっくり、自分の番号があるではないか! 家族でそれを喜んだが、一方の朋寛くんは落ちていた。帰りの車の中が何となく気まずかった。
二次試験は早稲田学院のある上石神井で行われた。論文のテーマは「感動」だった。僕は陸上競技大会でいかに感動したかを書いた。しかしそれは作文であって論文ではないことを後になって気がついた。一次試験合格で家族中浮かれてしまって二次試験の対策は全くしていなかった。今思えば学校の国語の先生にアドバイスを受けるべきだった。二次試験は落ちてしまった。あそこで浮かれずに二次試験対策をしていれば、僕の人生は大きく変わっていたようなターニングポイントだった。
専修大付属高校の受験の時は雅紀くんと一緒だった。試験はやさしかった。面接の時に髪を刈り上げることが校則で決まっているが大丈夫か、と聞かれた。変な校則だなと思った。結局この試験で僕は合格し、雅紀くんは不合格になった。T高校の試験の時は知野くんと大澤さんがいっしょだった。筑波大付属駒場高校を受ける浩士くんは、受かっていたらTの会場にはいないからよろしく、といっていた。試験会場には現れなかったので合格していたのである。都立高校の試験は英語や数学では満点を取れたが社会が苦手で七十点くらいしか取れなかった。それでも合格した。内申点が後押ししたのであろう。社会担当の藤井先生にそのことを話すと「そうかあ」と残念そうな表情をしていた。Tを受験した三人はみな合格したが、大澤さんは青山学院高等部に受かったため、そちらに進学した。結局僕は都立Tに進学する事になった。知野くんとは特に仲がいいわけではなかったので高校へ行っても会話することがほとんどなかった。
スポーツ
一年生の時は小学校の時と同様に野球とサッカーをやった。野球は学校のものではなく、地域のもので、毎週日曜日に練習か試合をやったが、月四回の活動で月謝を五千円も取られるので、ばからしくなって辞めた。技術的にもついていけないものがあった。サッカーは学校のクラブ活動で、何となく続けてみたのだが、あまりおもしろさを感じなくなってきていたし、バレーボール部の連中がとてもいきいきとしていてうらやましかったので二年生からバレー部に入った。
多少素質があったのか、「こいつうまいぞ」と部員に評価され、すぐレギュラーになった。一年生の時からやっている補欠の人になんだか申し訳なかったが、キャプテンの渡辺くんに気に入れられていた。ケン坊と呼ばれていたキャプテンは身長が百八十四センチもあった。後の部員はみんな百七十センチ前後で、ケン坊のワンマンチームだった。三年生の部員がいなく、自分たちでのびのびと好きなようにやっていた。試合ではケン坊ひとりではやはり限界があり、新宿区で二位が最高順位だった。
新宿区主催の陸上競技大会があった。Y中では陸上部というものがなかったので、誰でも参加したい人は出られることになった。僕は三千メートル走に出場することにした。大会前に参加者は新宿中央公園のまわりを走って付け焼き刃的な練習をした。
大会当日、僕の出番が回ってきた。スタートとともに先頭集団についていった。ペースが恐ろしく速く、ついていくのがやっとだった。千五百メートルあたりを過ぎたところで「このままでは脱落してしまう」と思った。目立たずに終わるのはスタンドから見ているクラスメイトにかっこ悪いと思い、トップに躍り出た。しかし終盤になって横っ腹が痛くなってきてペースダウンしてきてしまい、後続の三人に抜かれた。せめて三位入賞したいと思い、最後の最後の力を振り絞って三位の選手に襲いかかったが、相手のラストスパートもすさまじく、結局四位でゴールし、そのままグランドに倒れ込んだ。クラスメイトたちに抱えられてベンチに横たわった。
翌日の朝礼で全校生徒の前で校長が僕を誉めちぎった。入賞こそしなかったものの最後の直線で顔を真っ赤にして全力疾走しているところを校長先生は見ていたのだった。Y中には陸上部がなかったのにも関わらず、それだけの結果を残したことも誉められた。話を聞いている間、恥ずかしくて顔を赤くしながらうつむいた。朝礼が終わって体育館を出るときにみんなが僕を見ているのを感じた。
運動会でも僕は目立った。一年生の時は障害物競走に出場した。ちょっとやそっとじゃ飛べなそうな高さの跳び箱があった。スタート前に先生に「あの跳び箱、土足で乗っちゃっていいんですか?」と聞くと、いいよというのでやってみることにした。網くぐりなどの障害をクリアして、スピードをつけ、思いっきり左足で踏み切った。右足が跳び箱の上に到達した。「うおー」という歓声が父母たちから聞こえたので、びっくりしてそちらを向いた。余裕で一着でゴールした。
三年生の時はC組の応援団長を務めた。応援合戦ではA組、B組に負けてしまった。個人では千五百メートル走に出場した。Mくんに先頭を走らせ、最後の直線で猛烈なラストスパートをかけて、一着でゴールした。
とにかく中学校時代は僕の人生の全盛期だった。
中学校時代
勉強
僕は新宿区立Y中学校に進学した。一学年百人ほどの小さめな公立校中学校だった。だいたいY第一小学校と第七小学校の児童がそのまま進学する中学校だった。Y七小学校でも中学受験をする児童が何人かいて、僕も中学受験をしたい、と一度親にいったことがあったが却下され、僕もどうでもよくなってしまった。筑波大付属駒場中学校に受かったやつもいた。
中学校に上がると勉強がとても難しくなると聞いていた。だから兄も通っていた生井塾という小さな塾に通いたいと親に申し出た。古びたアパートの一室でまずアルファベットを書くようにといわれた。今まで英語とローマ字の区別さえつかなかった僕は半分程度しか書くことができなかった。解答を見せられて全部覚えて、といわれた。この時点では僕の英語力が後にどれほどすごいものになるかなど全く想像がつかなかった。
生井塾では英語と数学を学んだ。英語は生井先生が大量のプリントを使って指導し、数学は安原先生という、早稲田大学教育学部数学科前期博士課程の先生がアルバイトで指導をした。
はじめは英語がよくわからなかった。授業中に先生に指されてよくわからない受け答えをして他の生徒に笑われたこともあった。しかし中学一年生の途中から堰を切ったようにわからないところが解決して、英語が得意科目になった。
学校の英語の時間に将来何になりたいかとクラス全員がこたえて、僕は英語の先生になりたいとこたえた。塾の一番レベルの高いクラスに入って模擬試験でも一番に定着した。数学もトップクラスに在籍して好成績を修めた。
塾は楽しかったという印象が強い。友人の功がいたし、僕ら生井塾の生徒が好成績を修めていることをうらやましがって中学の四分の一くらいの生徒が生井塾に入った。
一年生の終わり頃に学校で実力テストがあった。僕は自分の実力を全く知らず、何も考えずに試験を受けた。試験結果が返ってきたが僕には最初は理解不能だった。一とか二とか三しかなかった。疑問に思って同じ生井塾で「天才くん」というあだ名のついている信吾のところへ結果を見に行った。すると僕のよりも大きな数字がならんでいた。そこで僕はやっと理解した。三科目男女別で一位、三科目総合で二位、五科目総合で三位だったのである。そこで初めて自分の能力の高さに気がついた。何よりも嬉しかったのは東大受験を口外している浩士くんを押さえて三科目トップになったことだった。
二年生の終わり頃に進路指導の三者面談があった。僕は志望校記入欄の第一志望に筑波大付属駒場高校、第二志望に筑波大付属高校、第三志望に学芸大付属高校、第四志望に早稲田大学高等学院、第五志望に都立T高校、と書いた。僕は恐れを知らなかった。担任の鈴村先生に第一から第三はちょっと厳しいので、早稲田学院とTを受けなさいといわれた。それで悔しかったわけでもなく、まあそんなところかと納得した。
生徒は何かの委員会に所属しなければならなかった。前期後期の三年分で計六期あった。そのうち僕は四期分を学級委員に選ばれた。さらに三年生の二期分は学級委員長を務めた。そのため先生からの評判がよく、内申点の三点アップを担任から示唆された。これでT高校の合格は確実になった。
T高校を本命として、チャレンジ校に早稲田学院、滑り止めに専修大付属高校を受験することにした。
早稲田学院は倍率が六倍で、一次試験の三科目筆記試験で三分の一に絞られ、二次試験の論文と面接でさらに二分の一に絞られた。過去問題集をやって七割弱解けたのでもしかしたら受かるかもしれないと思っていた。会場は早稲田大学だった。一緒に受験した朋寛くんは数学が得意でほとんどできたと休み時間にいっていた。僕は過去問通りくらいの出来だった。
合格発表の日、家族で車で見に行こうとすると道の途中で朋寛くんが歩いているのを見つけた。これから見に行くというから一緒にいこうと誘って車に乗せた。あまり受かるとは思っていなかったが、掲示板を見てびっくり、自分の番号があるではないか! 家族でそれを喜んだが、一方の朋寛くんは落ちていた。帰りの車の中が何となく気まずかった。
二次試験は早稲田学院のある上石神井で行われた。論文のテーマは「感動」だった。僕は陸上競技大会でいかに感動したかを書いた。しかしそれは作文であって論文ではないことを後になって気がついた。一次試験合格で家族中浮かれてしまって二次試験の対策は全くしていなかった。今思えば学校の国語の先生にアドバイスを受けるべきだった。二次試験は落ちてしまった。あそこで浮かれずに二次試験対策をしていれば、僕の人生は大きく変わっていたようなターニングポイントだった。
専修大付属高校の受験の時は雅紀くんと一緒だった。試験はやさしかった。面接の時に髪を刈り上げることが校則で決まっているが大丈夫か、と聞かれた。変な校則だなと思った。結局この試験で僕は合格し、雅紀くんは不合格になった。T高校の試験の時は知野くんと大澤さんがいっしょだった。筑波大付属駒場高校を受ける浩士くんは、受かっていたらTの会場にはいないからよろしく、といっていた。試験会場には現れなかったので合格していたのである。都立高校の試験は英語や数学では満点を取れたが社会が苦手で七十点くらいしか取れなかった。それでも合格した。内申点が後押ししたのであろう。社会担当の藤井先生にそのことを話すと「そうかあ」と残念そうな表情をしていた。Tを受験した三人はみな合格したが、大澤さんは青山学院高等部に受かったため、そちらに進学した。結局僕は都立Tに進学する事になった。知野くんとは特に仲がいいわけではなかったので高校へ行っても会話することがほとんどなかった。
スポーツ
一年生の時は小学校の時と同様に野球とサッカーをやった。野球は学校のものではなく、地域のもので、毎週日曜日に練習か試合をやったが、月四回の活動で月謝を五千円も取られるので、ばからしくなって辞めた。技術的にもついていけないものがあった。サッカーは学校のクラブ活動で、何となく続けてみたのだが、あまりおもしろさを感じなくなってきていたし、バレーボール部の連中がとてもいきいきとしていてうらやましかったので二年生からバレー部に入った。
多少素質があったのか、「こいつうまいぞ」と部員に評価され、すぐレギュラーになった。一年生の時からやっている補欠の人になんだか申し訳なかったが、キャプテンの渡辺くんに気に入れられていた。ケン坊と呼ばれていたキャプテンは身長が百八十四センチもあった。後の部員はみんな百七十センチ前後で、ケン坊のワンマンチームだった。三年生の部員がいなく、自分たちでのびのびと好きなようにやっていた。試合ではケン坊ひとりではやはり限界があり、新宿区で二位が最高順位だった。
新宿区主催の陸上競技大会があった。Y中では陸上部というものがなかったので、誰でも参加したい人は出られることになった。僕は三千メートル走に出場することにした。大会前に参加者は新宿中央公園のまわりを走って付け焼き刃的な練習をした。
大会当日、僕の出番が回ってきた。スタートとともに先頭集団についていった。ペースが恐ろしく速く、ついていくのがやっとだった。千五百メートルあたりを過ぎたところで「このままでは脱落してしまう」と思った。目立たずに終わるのはスタンドから見ているクラスメイトにかっこ悪いと思い、トップに躍り出た。しかし終盤になって横っ腹が痛くなってきてペースダウンしてきてしまい、後続の三人に抜かれた。せめて三位入賞したいと思い、最後の最後の力を振り絞って三位の選手に襲いかかったが、相手のラストスパートもすさまじく、結局四位でゴールし、そのままグランドに倒れ込んだ。クラスメイトたちに抱えられてベンチに横たわった。
翌日の朝礼で全校生徒の前で校長が僕を誉めちぎった。入賞こそしなかったものの最後の直線で顔を真っ赤にして全力疾走しているところを校長先生は見ていたのだった。Y中には陸上部がなかったのにも関わらず、それだけの結果を残したことも誉められた。話を聞いている間、恥ずかしくて顔を赤くしながらうつむいた。朝礼が終わって体育館を出るときにみんなが僕を見ているのを感じた。
運動会でも僕は目立った。一年生の時は障害物競走に出場した。ちょっとやそっとじゃ飛べなそうな高さの跳び箱があった。スタート前に先生に「あの跳び箱、土足で乗っちゃっていいんですか?」と聞くと、いいよというのでやってみることにした。網くぐりなどの障害をクリアして、スピードをつけ、思いっきり左足で踏み切った。右足が跳び箱の上に到達した。「うおー」という歓声が父母たちから聞こえたので、びっくりしてそちらを向いた。余裕で一着でゴールした。
三年生の時はC組の応援団長を務めた。応援合戦ではA組、B組に負けてしまった。個人では千五百メートル走に出場した。Mくんに先頭を走らせ、最後の直線で猛烈なラストスパートをかけて、一着でゴールした。
とにかく中学校時代は僕の人生の全盛期だった。