2度目の手術の後は前回の痛みなんてものではありませんでした。
 
人間は痛みでも痩せられます。おまけに悲しいかな手術台からベッドに移された時にギプスベッドにきちんとはまっていなかったのでしょう、丁度骨盤の辺りの痛いなんて表現では足りない、表現できないほどの激痛でした。
 
酷く出血していたのがわかるのが6週間後、ギブスから出された時でした。
 
そして私はこの時に薬のアレルギーになりました。
 
術後にペニシリン系の抗生物質を使ったのが、身体に合わなくて全身に粟粒のような湿疹ができました。
 
全身です。そして皮膚が柔らかいところであればあるほど、かゆいのです。想像したらわかるかもですが、全身なので大事なところなどは特に痒かったです。
 
そうなると痒さを抑えるために注射と点滴をされましたが、痒みがすぐには収まるはずもなく、真冬だというのに、全身アイスノンや水枕やこおりで冷やしてもらいました。
 
病棟中のアイスノンをお借りしたような感じでした。
 
さすがに2度目の手術で入院は4回目ともなると、どの看護婦さんや助手さんも、とてもよくして下さってありがたかったです。
 
それ以来、私の身体は「ペニシリン禁」となっています。
 
お正月は2年続けて病院のお節料理で味気ないというより、家族バラバラで寂しい思いを弟にさせてたことに、本当に悪かったな・・・と感じていました。
 
弟は当時、中学2年生でした。
 
朝、お弁当も父が作ってくれた時もあったようですが、パンを購入していた方が多かったのではと考えると母親を独り占めしているみたいで申し訳なかったです。
 
その当時は完全看護などなく、付き添いが必要で、家族が付き添えないなら、家政婦紹介所を通して、「付き添いさん」を頼まないといけなかったのです。
 
料金は今から40年近く前で1日8千円~1万円位だったと思います。
 
病院に泊まり込んで1日中面倒を見る訳ですから、高額の料金がかかりました。
 
そんな理由からも母が付き添ってくれたのです。6週間も付き添ってもらったら42万、ギプスから出てもすぐには一人では動けません。そうなるとあっという間に50万ものお金が付き添い料金でかかるのです。
 
その当時はまだ医療保険にこどもが入るというのがなかったのか、母が疎かったのか、私名義では医療保険に入っていなかったので、当然ながら家にある貯金からの支払いをしてもらっていました。
 
振り返って考えても両親には本当にお世話になったというか、母は文句の一つもなく、逆に私に対して「さりーが病気になってくれたから沢山のことに気づかせて貰えたんだよ。だから何一つ悪いなんて思う必要はないのよ。お金の心配はしなくて平気よ」と言ってくれたその言葉にどれだけ救われたか、言われたその時はただただ泣くしかできなかった私ですが、この身体でも今母を最期まで母の希望通りに看てあげたいと思うのはこういう背景もあるのだと思います。
 
6週間後、無事にギプスベッドから出ることができましたが、ギプスベッドに入っている間に同じ病室にお一人「ご老体様」と陰で呼ばれてしまうほど、横柄な高齢の方が入院して来られました。誰にでも横柄で我儘を言っていたので、看護婦さん始め皆さんからも嫌がられていたように感じていました。
 
同じ整形外科だったので、同じ病室です。
 
私は寝たきりが長かったので、南向きでお日様は1日中部屋を照らしてくれますが、程よく窓から離れて暑い思いをしなくて済むように配慮を頂いていましたが、その方は足の骨折でご自分も身体が辛いし痛いしで、自由に動きが取れないからかイライラしていたのでしょう。
 
寝たきりで動けない私のことをチクチク攻撃し始めてきました。
 
歳が一番若くて入院歴が長い、病院にかかっているのも病室の中で一番長い、そうなれば知ってる顔が増えるのは当たり前のこと。
 
そのご老体様はそれが気に入らなかったみたいで、皆さん動ける人がリハビリに行く時間には動けない私とご老体様だけになるのです。
 
母も洗濯やら自分の食事を買いに行ったりト付き添いでもやることがあります。
 
時にはお昼の食事が終わってトイレを済ませたあと、自宅に一度戻ったりしていましたので、長時間病室にいない時もありました。
 
そういう時を見計らって、「若いくせに病気なんかしてダメだね」「今の若いものは何やってるんだか」とか「いつまでいる気なんだい」と動けないのをわかっていて言葉での攻撃です。
 
看護師さんや助手さんが入って来ると黙るという卑怯な方でした。
 
それでもお家の方はどなたも来られないし、家政婦さん任せにされて気の毒だなって最初は思っていましたが、動けないですし、私も逃げようがありません。
だんだん心が追い詰められていきました。
 
母が留守の間にこういうことを言われたと紙に書いて渡したりしましたが、母もいない間のことですし、看護婦さんにお願いしていくしかありません。
 
母からは「看護婦さんに頼んであるから」と言われれば仕方ありません。
 
私のことで不自由をかけているのですから我儘も言えるはずもありません。
 
時々看護婦さんが現場を捕まえて注意してくれるようになりましたが、またそれが面白くない。
 
当時まだ17歳だった高校3年生の世間を知らなかった私には意地悪なことを言うおばあさんはとても耐えられませんでした。
 
それでもまだ母が付き添いでいてくれる間は我慢が出来ました。
 
いよいよ付き添いが離れて一人でトイレまで行けるようになったからと母が帰る日、私は母の手を震えながら握って放せませんでした。
 
あまりにも私の様子が変なので、母が看護婦さんに相談し、そして先生に話してくれてそのおばあさんと違う病室にしようとなりましたが、既に私の心は壊れていました。
 
ここから長いトンネルに入っていくのでした。
 
つづく