戯言でしょうが、記録しておきたいので敢えて書いておく。
あるツィートに寄せて。。。
弱った時や 都合のいいときには、『たいせつなもの』と呼ばれ、
都合が悪ければ怒りを公に言葉で表せる その 自由 は、
先輩 とか 先生 とか 同業者 なら許されるんだ! ということでしょうか?
ならば、わたしは極個人でしかないですが、ここに書いてもいいでしょう。。
(私が『そこ』に含まれないのは重々承知です。わたしがあなたを信じたのは、あなたが教官室で言った言葉「ジェッソの白の方が雪の白に近いので、好きなんです。」を聞いたからです。このひとは違うなって感じた自分を信じたかったから、その後10年も「あいつは計算高いって言われてるよ」と言われても「いや彼は違うと思います。そういうひとじゃない。」と即答していたのを憶えています。だからあなたは、わたしにとって昔も今も先生だった事はありません。応援するべき対象でした。
今思えば、わたしが純粋だっただけじゃんと笑われるでしょうが、『雪の白』その一点は今でも正しかったと自負しています。 ブラマンクの雪景色を描いた作品を観ている人なら、解ってくれるはずです。 わたしがその後あなたに否定的になったのは、それとは別の人間性に疑問を感じる機会が増えた事と、横浜展の中身に不毛なものを感じたからです。つまり、どう生きてきたのか?が見えてくると、とても尊敬出来る対象ではなくなっていきました。)
何人かの知人が亡くなりました。
あの時、みんな あそこにいました。。。造成地の水溜りの前で。
今思えば噓みたいな奇跡でしょう。
そして あなたの周りの人達だけ たくさん亡くなったのが 残念です。
もっと活躍するだろうと楽しみにしていた人達でした。(今では、あなた以上に。)
なぜ、みんな居なくなって それを継ぐひとが育たない環境と手を組む事にチカラを貸すのか?
しみったれが嫌いなら その しみったれた根性で 先生面するのは見たくないです。
同世代の為だけに生きてきた価値観が、今更役に立つとするならば、それもやっぱり
同世代の為だけに生きる子供を育てることしか出来ない方法なんだと思います。
それが今、本当に必要な時なのでしょうか?
団塊の世代とそれに憧れた人々が、昔の挫折感を晴らそうと権力を振り回してるとしか見えない今の日本で、またそんな生き方を純粋な人々に選ぶ様仕向ける事は、愚行の繰り返しにすぎません。
これからのあなたや私達は、先生や先輩になろうするのではなく、先生を捜し続ける姿を見せるべきなんじゃないでしょうか?医者や職人が一生勉強し続ける様に、人生いっぱい学び続ける人こそが「あのひとが先生です。」と、死んでから呼ばれるに値するんだと、わたしは思います。
そこに本当の夢があるんじゃないだろうか?それこそが日本人の本性なんじゃないかな?と
わたしは思います。だから代々に繫がって行く経験をもって師と仰ぐ事をやってこれた事こそ
日本人の芯の価値観であると信じて生きたい。封建主義や絶対服従な仕組みを採らなくても
それが出来る事を示す姿を見せられないなら、なんにも新しくありません。ただの仕事。
生きるのに切実なら たいせつなひとが亡くなって逝くのは 最も切実なはず。
何を守ってるんですか!!!!!!!!!!!!!!!!! 今!!!!!!!!!!!!!
奴が見下されるのは当然ですが、それを心に仕舞えない あなたに綺麗事を言う資格はない。
しみっったれが大嫌いなら、どうか鏡に向かって叫んで下さい。それが あなた です。
以上、覚書。
今日 納骨に 行って来た 。
空は快晴だった。 それだけで充分じゃないか。
ありがとう。 みんな無事に それぞれの 家に 帰った。
それだけで ありがたかった。
鍋焼きうどんを これから食べよう。 それでいい。。。。。余計なものはいらん。

