こんにちは、杉田あゆみです。

 

 



私は被爆二世です。

 

 

今でもこちらから父に尋ねないと、

口を開かないあの日の記憶。

 

でも、

父は決して忘れることはありません。

 

 

少ない語りの中から、

母がエッセーにしたこの、

 

芸備線ー来年の夏も  またー

 

 

両親とは違うスタイルで、

私も伝えていこうと思ってます。

 

 

 

現在89歳の父と85歳の母は、

今年もまた、広島行きは諦めました。

 

新型コロナの影響がまだまだ大きいので。

 

 

そろそろ、

父に毎年の広島での行程を

詳細に聞いておかないと、

と思っています。

 

 

 

芸備線ー来年の夏も  またー

 

広寂寺に着いたのは、

五時半を少し過ぎた頃だった。

夕凪でぱったりと風の止む

広島の夕暮れ時には珍しく、

絶え間なく風が吹いていた。

 

 

来年もこの時間帯がいいわね。

 

と言うと、夫も、

 

そうだね、そうしよう、

この時間帯がいい。

 

 

と即座に答えた。

 

住職の自宅に挨拶を済ませると、

早速墓に参った。

 

本堂の脇の墓地入口には二つのテントが張られ、檀家の人が訪れた人の世話をしている。

 

ポツリポツリと、

線香や花を手にした人の姿が見える。

高齢の人が多い。

 

日盛りを避けて、

夕刻の墓参となった人達と見受けられた。

 

 

義母が亡くなってからは、

年々、広島を訪れる回数が減り、

今では年一回、

お盆に二泊三日での日程が恒例となった。

 

今年は早朝の出発を避けて

昼前頃東京発の新幹線に乗ることとし、

4時過ぎに広島着。

墓参だけを一日目の日程にした。

 

 

翌朝9時、夫は、

 

じゃ、行ってくるよ。

 

と、一人でホテルの部屋を後にした。

 

 

気をつけてね。

 

と私は送り出す。

 

これは毎年のことで、

夫はどこへ行くとは言わない。

 

私も行先は訊かない。

 

 

この時、夫は、

小網町の天満川河畔に建てられている

 

「市中慰霊碑」

-旧制広島市立中学校原爆死没者慰霊碑ー

 

に参る。

 

ホテルから20分程の碑まで、

いつも徒歩で行く。

 

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昭和19年11月、

市中二年生に対して学徒動員令が下された。

 

三年生、四年生はすでに動員されていた。

 

 

作業現場は小網町の三菱重工業広島工場で、

一部は部品製造等、

一部は工場の疎開作業であった。

 

 

夫は、8月4日まで、

天満川左岸にあった現場で、

建物疎開作業を行っていた。

 

 

 

昭和20年8月6日(月曜日)、

夫のクラス二年一組は、

芸備線下深川にあるトンネルに

秘密書類を移す作業のため、列車に乗っていた。

 

 

たまたまその作業が

二年一組に割り当てられたことが、

大きく生徒たちの運命を分けることになった。

 

 

 

結婚以来、広島に滞在するときは

殆ど二人で一緒に行動をする夫が、

慰霊碑には迷わず一人で行く。

 

そのことを、

私はごく自然に把えてきたように思う。

 

 

 

原爆に関して私は、

自分から積極的に話を持ち出したり、

質問したり、ということをしたことはない。

 

 

敢えてそうしたのではなく、

そうせざるを得ない雰囲気が、

夫の家にあったのだと思う。

 

 

義父は生前、原爆で亡くなった、

夫より二歳下の弟正憲の名前を

一度も口にしたことはなかった。

 

法要もしようとはしなかった。

 

やんちゃで何事にも積極的だった弟を、

義母は惜しんで時折話題にしたが、

そんな時義父は、

ふっと席をはずしたり、

別のことをし始めたりして、

決して話の中に入ろうとはしなかった。

 

 

そんな時の義父には、

日頃、優し過ぎる程優しい人に

こんな一面があったのかと思わせるような

取り付く島もない表情が見られた。

 

 

私はそんな義父の横顔を見ながら、

気もそぞろに義母の話に相槌を打ったりした。

 

 

そんなことが何度もあった。

 

 

あの日、

市の中心地にある

耳鼻科へ出掛けた義弟を探して、

義父、義姉と夫は、十日間、

市内を歩きまわった。

 

 

原爆投下後の街の様子は。

私の想像出来るものではないと思っている。

 

 

目に焼き付いた光景や臭気は、

その後もずっと、彼等の中から

消え去ることはなかったのではないか。

 

 

 

昨年、被爆後六十年を経て、

市中原爆死没者慰霊の記念誌が出た。

 

 

その中に、

昭和22年頃の慰霊祭で遺族に囲まれ、

 

 

どうしてあんたは生きとるんね、

皆死んだのに、、、、

 

 

と詰め寄られ、それ以来、

子供を亡くした親たちに

会うのを避けるようになった、

 

という文章が載っていた。

 

 

 

さり気なく、夫に訊いてみた。

 

慰霊祭に出たことあるの?

 

と。

 

 

一度しか出たことはない、

 

 

と夫は答えた。

 

 

動員現場で作業をしていた生徒のうち、

死者316名、生存者0、行方不明142名。

 

その多くが避難場所でもあった

天満川の川土手で息絶えた、とある。

 

【後編に続く】