おはよ!

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さくら足元チンマリ

家族は何時まで耐えられたでしょう?

今は眠っているようですので

静かに過ごします

 

今日は早いお時間に

お医者様に予約を入れてありますので

ちょっとだけのお時間

 

先の記事で

お墓参りもそうですが

弔うと言うこと沙羅なりの都合として

見た事を書いています

大事なご家族が亡くなった

悲しみを如何に癒すか

とは言いましても

気持ちの問題、その方との

関わり方の問題なので

側からこうだ!と口を添えられる事ではない

それを、重々承知で

書いてみようと思います

 

ですから、それぞれの宗教上の

教えやしきたりにも

大いに反すると言われる可能性もあります

 

実は、人の感情のまま

亡くなった方を見た時に

如何感じているのか

コレは人知れず

亡くなった方を見るより

そこに座る方々を見た方が

そこに座っている方のお気持ちを

測れると言う不思議な体験をしたことがあります

 

この人は

心底悲しんでいるとか

死んだ後のご自分の生活を思って泣いているとか

ああ、、人の顔を見て

ご自分も下を向かなければ、、と思っているとか

 

自分自身の立場で

お葬式の場面に立ち会った時にさえ

祭壇のお写真に

同じ思いを抱いているのでは無く

それぞれの思いがあった

 

先の記事を書いてみて

死者、亡くなった家族に対して

同じ悲しみの感情ではないんだと

自覚することが出来た

一派からげて家族と思っていたが、、違う!

 

その、気持ちの持ち用

コレはとても気になる所

 

一度山に

遺骨を両手に持って

「納骨して下さい!」といきなり来られた方が居た

この方にとって納骨は

 

身内が亡くなった(役所から)

貴方が喪主(法的に)

火葬の義務がある(役所から)

手配します(葬儀屋から)

収骨に行きましょう(葬儀屋から)

収骨して下さい(火葬場の人から)

はい、お骨です(火葬場の人から)

安置してください(葬儀屋と知らん寺から)

友達に

こんなん要らんで如何するん?

放っても良いんかな?

偶々、そのお友達

沙羅の勤務地の山に

お墓を持っていて

ちょっと前に返還のお手続きを

完了されていた

で、そこで

合祀についてのご案内を聞いていらっしゃったので

その事を

教えて下さった

ですが、お骨を持っている方は

持って行ったら

置いて帰られるものと判断されたようです

 

これ、本当に笑い事では無いのです

流れで

ご自分で何も判断せず

 

何かを押し付けられたと

思っていらっしゃる

 

問題は

この押しつけられたと言う所

 

この方とこの方が手に持っているお骨との

関わり方そのものでは無かったか?

生きてるか如何かも知らんかった

親やと言うだけで

顔も記憶にない

それを何で、子供やからって

籍が抜けて無かったからって

オカンが俺に見覚えも無い

オトンて人を押しつんて死んでもた

俺はこんな奴いらんやろ?

 

って

ですが、実際には

如何だったのだろうか

 

籍が抜けて居ない、顔も覚えていない

と言う事は

小さい頃に母娘を置いて家を出た父親

市役所からと言う事は

行き倒れか偽名を使って生き延びてきた人

死ぬ間際まで

戸籍に子供の名を残しているのは

子供への思いがあったから、、か

知識として

その対処方法を知らなかった

 

母親にしても

きっと、知らなかったか

いつかは帰ってくるやろ、、か

帰ってこれるように、、か

お骨を持っている人自体

友達の父親を見たり聞いたりした時に

家には父親がいないと言う

矛盾点を思ったのでは無いか?

生活が苦しい時には

居ないせいで、あんたとこは

金は出せんやろ、、と言われた記憶はないか?

母親が詰られて

陰で泣いている姿を見た記憶はないか

その時

探し出してでもと思った事はないか?

今度会ったら!と息巻いた事はないか

 

ただ単に

お骨を抱えた人が呼んだから

自然な流れによって

手元に手繰り寄せられてきた

役所が動いている時には

多くの物を残して居ない時

残して居たら

法律家が動いて家族を探す

 

ですから

この段階で身元引受人を拒否することが出来る

 

お葬式もね

式しなければならないのでは無く

火葬をしなければならない

コレは法律で決まっている

そして、この責任者に「喪主」と言う

レッテルがある

 

費用の支払い責任、、、と

お骨の引き取りか不要かの判断責任

この責任の件を

軽く、いなされた案内が

 

「お式が終わりましたら、火葬場に向かいます

2時間ほど後に収骨にもう一度上がりますので

其れ迄、お食事でお時間を使うか

又は、斎場でそのままお待ち頂くか」

「斎場で待つわ」とお返事をされるのが普通

 

ですが

この時に

お骨を引き取る責任を認めている

この時にご自分で

お骨を安置、供養するつもりがないのであれば

「お骨揚げはしません」と

喪主の責任において

葬儀屋さんに申し渡さなければならない

但し、実際はもっと早い見積もりの段階

お骨箱のサイズは?と聞かれた時

要らないと伝えなければならない

 

捨てられたと言う思いが

死んで手元に帰ってきた

その時に流れのままに

父や、、、と思う心が

切れたはずの縁を結び直している

 

お骨を要らないと言うと

何回も念を押されます

理由は

後でやっぱり欲しいと言う

やり直しが効かない

手順だからです

葬儀屋さんも、斎場の人も

どちらも責任を押し付けられるのは

嫌なのです

当たり前ですよね?

 

母が最後を自分に押し付けた

そのお骨を葬儀屋さんも斎場の方も

押し付けられたく無い

 

そうです

此処が、この処理が縁の切れ目

自分と言う命を生み出した人

ですが

育てると言う責任が放棄

 

その父の生まれ変わり

死にゆく先

縁を切りたいなら責任を放棄

と、同時に父親の行先も無いものにする

誰1人手を合わすで無く

誰1人涙をするで無く

只、法に則り責任を果たす

 

その処置ができた時

その縁も切れる

あくまでも

父に一目でもと言う

幼い思いが手元に手繰り寄せられて来ただけ

自分が呼んだ

今度手を離す時には

コレが縁の切れ目と手を離す

 

後は手を合わす事もならず

忍も成らず

名を口にするもならず

一度でも名を呼べば

それはその人しか居ないのであるから

当然

縁が繋がる

 

そして、思うのは

名も言えぬ父親から

受けた教えは無いのか?と

反面教師

子をなすのであれば父のようにはなりたく無い

この想いこそが

大きな教えでは無いだろうか

それをまっとうできた時

ご自分が息子に送られて死ぬ時

子供自分の父親とも縁が切れる

自分がその人を思うから引き寄せている

悲しみを思って

憎しみを思って

人を想ってはならない

 

と、思う

 

沙羅より