母と娘とは何ぞや!! | 化学物質過敏症&ガンになったカラポンの書いても委員会

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日々の気持ちや行動を、その日の感じるままに、音楽と共に呟いています♪自然に戻り自分らしく心のままに生活するため、終活しながら終の住処を探す旅をはじめました。

 
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午後のひととき
カラポンのブログにようこそカラポンの書いても委員会-1047.gif
 
今日は母と娘についてのお話し
 
みんなは、お母さんとの付き合い方はどんな感じ?
 
お互いを尊重している?
 
私と母親との関係は複雑で難しく
母親との生活は辛くて厳しい。
 
一人息子に嫁いだ母は、遊び人の父に代わり祖父の事業を引き継いでた。
 
従業員は7.8人
みんな住み込み。
 
祖父母は脳梗塞で倒れ隠居
父親の帰宅はめったに無い。
 
娘が二人…
 
大変だったと思う。
 
しかし、
商売はど素人
従業員のお兄さん達は中卒からの丁稚さん
祖父に仕込まれているから、母より確かな人達だ。
 
彼等との二人三脚で営んでいた筈だが。
 
自分の力だと勘違いしたのだろうか
 
祖母が亡くなり、
父が亡くなり、
祖父が亡くなりしていくうちに
何かが変わった。
 
祖父母にガチガチに締め付けられ
 
父親の悩みから解放された反動は
 
母の緊張の糸をプツリと切った。
 
それは
思春期になった私達姉妹に
大きく影響した。
 
子供の頃
私は母に育てられていない。
 
乳母車に乗り、知り合いの家に預けられていた。
 
幼稚園になっても
小学生になっても
私の側に母はいなかった。
 
周りの人達は
私に母親以上の愛情を注いで育ててくれた。
 
大切に優しく、
愛情を持って厳しく
 
 
なぜか母は
私にとても冷たかった。
 
話しかけても『忙しい』『今ムリ』は日常。
 
来客と一日中笑って話している母。
 
綺麗に化粧をして、
ネイルをして、
宝石をつけ、
高級な服を着て笑っている母。
 
子供の私の中に違和感と嫌悪感を作り出してしまった。
 
中学に入ってすぐ、父が死んだ。
 
それを合図に、私は母に何も聞かなくなった。
 
聞いても無駄
『忙しい』『今ムリ』
そして
『アンタの言ってる意味が分からない』
が加わった。
 
外泊は二十歳過ぎまでダメだったし
外出も、誰と何処へ何をしに
までが明確でないと出して貰えなかった。
 
高校に入った頃は、
すべて自分の意思で動いた。
 
真面目では無かったが、親に連絡が入るようなヘマはしたことはない。
 
行事には一切出ることは無い母なので、先生との話しは自分だけで済ませた。
 
それも
『忙しいから行けない』『店の看板背負ってるんだから恥かかせないで』
 
言われてたからね。。
 
その内
家には不動産や建設業、
医者や銀行員が集まり
朝まで麻雀をするようになった。
 
近所のおばさん達に嫌ごとを言われた。
 
いつしか私達姉妹は
家に寄り付かなくなった。
 
妹は母に育てられたのに、迷惑かけまくりの人間になった。
 
母は激怒したが、私達に聞く耳は無くなっていた。
 
丁稚さんのお兄さんはおじさんになり
店も改装 改装を繰り返し
 
お客さん達も離れていった。
 
 
母は誰に相談せず
店も家も手放した…
 
 
私達娘にも、
丁稚さん達にも、
お得意様にも
何も言わず
 
 
私と妹は方々へ出向き泣いてお詫びした
 
泣いて誤ってすまされる年月だろうか?
 
 
 
信用と信頼は
そんなに簡単に断ち切っていいのだろうか?
 
家族って
親って
絆って
 
なに?
 
私が積み重ねてきた人との繋がりを
親が勝手に断ち切っていいの?
 
私のアルバムも大切な物も
全部棄てられてた…
 
 
 
何も無くなってた…
 
 
 
そんな母と
 
一緒に暮らしている。
 
上手く行く筈がない
 
笑っちゃうくらい、おかしなことをする母
 
食べ物に異常な執着を燃やしている。
 
私の言うことは
すべて否定するし。
 
毎日が苦しいのは当たり前だあせる
 
 
 
まだまだ
 
 
 
カラポンの戦いはこれからなのだあせる
 
 
 
続きは またの機会に…!?