外国で暮らし始めた頃は、言葉も細かいルールもよく分からない。その分、自由を感じることがある。あ、この人何もわからないから自由だと勘違いしているんだなという人にも良く出会う。

周りの空気を読みすぎなくていい。暗黙の了解も知らない。だからこそ、日本にいる時より気楽で、この国は自由だなと感じることもあるのだと思う。

でも、その自由は実はその国の枠組みの外側にいるからこそ感じられるものなのだと思う。

その国で長く暮らし、働き、子育てをし、人間関係を築こうとすると、見えなかった細かなルールや慣習が見えてくる。どの国にも独自のあうんの呼吸があり、それを理解して初めて本当の意味で社会の中に入っていくことになる。

けれど、外国ルーツの人にとっては、その見えないルールがなかなか分からない。努力しても分からないことがあり、ときに疎外感を覚える。振る舞い、目の配り方、ちょっとした反応、一言、それらはその国のしっくりくる反応というのがある。

一方で、ずっと枠組みの外側で生き続けることもできる。十分な収入があり、現地社会と深く関わらなくても生活できる人は、その国の楽しい部分だけを味わえるかもしれない。ルールを学ばないまま、収入はあるので楽しく暮らせるのだと思う。

 

その国に住み、その国を楽しむことと、その国に溶け込むことは必ずしも同じではない。

私は、どの国も深くコミットすればするほど、日本と同じように細かなルールや人間関係の難しさがあるのだと感じる。そして、それを理解するほど、自分が外国人であることも意識するようになる。言葉が母国語ではないというのは、単に会話が難しいということではない。その社会の見えないルールにアクセスしづらいということになる。と私は思う。

だからこそ、外国で生きることには自由もあるし、苦労もある。その両方を知って初めて、本当の意味で異国で生きるということが見えてくるのだと思う。

子供に好きな国で生きてくれと願うならば、そのあたりが不自由なく読み取れるほど日本語も習得させてあげたいなと思う。そして、私のような超繊細ではなく、鈍感力を身に着けても暮れたらいいなとも思う。

子育てをすると悩みはつきない。

子供のために何がいいのか、この言葉は適切だったのだろうか、

この態度をまねたのだろうか、

考え始めるとエンドレス。

そして、自分の完璧じゃないさに落ち込む。

 

子どもを通じて他の家庭の教育方針に触れる機会も増える。

「うちはこうだけど、あちらは違うな」

そう感じることも少なくない。

親同士の付き合いも、なかなか悩みの種だ。

余計な意見を言わないように気をつけながら、心地よい距離感を探している。

中には、家庭の事情にやたらと踏み込んでくる人もいる。

探りを入れられているように感じることもある。

どうしてそんなことまで知りたいんだろうとどんびく人がいる。

私が話さないと、今度はPに聞こうとする。

正直、いい加減にしてほしいと思うこともある。

でも反対に、あまりにも距離を置かれると少し寂しく感じる。

人との関係は本当に難しい。

近すぎても疲れるし、遠すぎても物足りない。

結局のところ、心地よい距離感というのは相性なのだとおもう。
 

お金の話もまた難しい。

結構お金がかかったよ。

そんな話を聞くと、同じような生活レベルでなければ、自慢のように聞こえてしまうこともある。

その一方で、

「いいな」

と思う自分もいる。

さらに、

「そんなに使えるなんて、どういう収入なんだろう」

と疑問を持つこともある。

もちろん、口には出さないけれど。

人は誰でも、多少は他人と比べてしまうものなのだと思う。

結局のところ、親同士の付き合いは少なからずストレスを伴う。

だから私は、家庭のことを必要以上に話さない。

近づきすぎない。

そのくらいがちょうどいい。

少なくとも今の私には、その距離感が一番楽だ。

無理をして仲良くなろうとしなくてもいい。

子育てだけでも十分にエネルギーを使うのだから。

そう思いながら、今日も自分なりに親をやっている。

子育てをしていて思う。

親になると、子どもだけでなく親同士の人間関係という新しい課題もついてくる。

そしてそれは、思っていた以上に難しい。

でも、無理をしないこと。

自分と家族を守れる距離感を大切にすること。

それもまた、子育ての一つなのかもしれない。

一つ目の仕事に波があるので、二つ目の仕事を探している。

経験もあるし何とかなるだろうと思っていた。しかし、たぶん私の状況では人脈が必要で、それがない私は、仕方がないので新しい研修を受けることも考えている。受かれば世界は広がるし、やりたい仕事にも近づける。また勉強ができるし、内心わくわくもする。

でも、その先を考えると足が止まる。

子供たちはまだ小さい。家事も育児も学校のことも、私が担っている。健康面への不安もある。無理をした結果を知っているからこそ、簡単には決断できない。次癌になったら、どうしたらいいのだろう。

 

やったところで、本当にできるのだろうか。そう思いながらも、まずは目の前の試験か。

 

子供が本当に願っていることは、目をつむって強く願うといいんだってと教えてくれた。どこで教わったのだろう。

最近はpにキレ散らかされると、我慢したことや腹が立ったことばかり思い出していたけれど、これからは少し違う未来を想像してみようと思う。子供たちを育て上げ、健康な自分で日本に帰る日。温泉を巡り、美味しいものを食べ、友達に会い、本を読む。

そして、できれば今目指している仕事を続けている。そんな未来を思い描きながら、まずは一発目の前の試験を受けてこようと思う!いつでも明るく楽しみながらだ。

最近、いろいろな人の病気の話を聞く。そういう年齢になったのだなとも感じる。

 

症状のこと、その受け止め方、置かれている状況、それぞれに違いがある。

 

病気というものは、命に限りがあるという現実を突然残確にも突きつけてくる。同時に、命は自分だけに与えられたものということも強く意識させる。それは真実だけどとても心細いものだったりする。

 

ある人は、こうした話を暗いから聞きたくないとはっきり言う。

またある人は、老人の世話や介護、老人ホームといった世界に対して、気持ちが落ちるから関わりたくないと高らかに言い切る。

 

 

実際には、年齢、置かれた立場、社会的地位、その人の抱える事情など、無慈悲なほどに、何も関係なく、人は誰しも病気や老いと無関係ではいられない。

 

そして、そういう人に少しずつ触れる中で、私は、病気に対する受け止め方や、その後の振る舞い、闘病中の姿勢には、その人らしさがはっきりと表れるんだなと学んだ。

 

 

病気そのものの進行や種類に関係なく、人それぞれの向き合い方がある。

 

話を聞く側も、最初は心配になったり、自分に重ねて不安になったり、聞きたくなかったとすら思うこともある。

 

それでも時間が経つと、その出来事ごと、その人の一部として受け止め、関わっていくようになる。

 

そうしていく中で、その人の生き方や姿勢に励まされたり、生きるということそのものを感じさせられることもある。

 

 

特に高齢の方であっても、それは同じだと思う。老人ホームのような場所は、確かに大変さはあるけれど、同時に学びや励ましを受け取る瞬間がたくさんある。

 

結局のところ、病気になったあとにどう向き合うか、どう生きていくか、どう人と関わるか。

そこに、その人の生き方が現れるのではないかと思う。

 

そして自分自身に引き寄せて考えても、病気になったとしても、その後の向き合い方次第で、人は誰かに何かを残し、社会の中で何かしら貢献していけるのではないかと思う。

 

関わるすべての人が、少しでも穏やかで、幸せであってほしいと心から思う。

今日、日本の家族と話していたら、途中で話を自分の話に持っていったと、ぶちぎれられて、委縮した。

露骨にいやそうないい方されると委縮する。。。。

歳をとると、自分の話やら自分の盛り上げ話で終わらせたがる人が多いのかもしれないと感じる。

先日とある人と話していても、内心、全部自分の盛り上げ話で終わるな。。。とちょっと内心思ったところだったので。

 

そういうルールを意識している人からしたら、自分より年下とみている相手がぶっちぎるとイラつくのかもしれない。

普段怒れない分起こってきたのかもしれないとも思う。

 

嫌な思いをする前に、嫌な思いを味合わなくていい工夫をした方が賢いと思う。

 

なので、これから、日本人と話す場合、特に女性と話す場合、最後まで話を聞く。

だるいなっと思っても、最後まで遮らずに聞き、相手が話し終わったら自分の話をするをかなり心がけようと思う。

 

先月本業の仕事の依頼が少なく、何かしたんじゃとすごく落ち込んでいたのだけど、

今日はなしていたら、私の仕事ぶりで悪い対応だったとかなく、単純に依頼が少なかったのだと聞き、消えかけた自信が守られた。

世界情勢に影響を受ける仕事でもあるので、仕方がないか。

この仕事が一番好きな仕事ではあるが、波があるので、淡々と別の作業も進めようと思う。

 

石原慎太郎さんが、人間二つのことはちゃんとできるんですよ。二つあることで、お互いにいいアイデアがわき、いい効果があるんですよと言っていた。私も、仕事を二つ持てるよう引き続き進めていこうと思う。何より、単純に依頼数が少なかったということが分かってよかった。怖くて聞けなかった。。。。しなやかに、粘り強くが目標だ。

今日、仕事の打ち合わせがあったのだけど、

そこで内と外の境界線がほぼない、喋りまくる自分に気が付き、猛省した。

この国にいると、話しまくる方が、大事なのもあり、おとなしいと採用されないという背景もある。

でも、日本人と話す分に、途切れなく明るく元気に話すおばさんは、うざい。。。。

相手に話させておいた方が楽なのに、話しまくってしまった。。。。猛省。

 

あああ、私うざいなと自分で思った。

特に静かな日本人の前では、もはや公害に映るのかもしれないとひどく悲しく思った。

 

この国用の自分と、日本人対応の自分とガチガチに切り替えなくては。。。。

日本人対応の自分になる場合、静かになれ、黙ろうと三回唱えてから、場に臨むようにしよう。。。

 

日本人対応の自分でこの国で仕事をすると、静かすぎて採用すらしてもらえないとも思うから。

もうすぐ日本に帰れるということで、楽しみで仕方がない。

心は踊るし、連日の雨でも、毎日心はウキウキしている。

日本で買うものリストは膨大に膨らみ、クリスマスプレゼント代を先に買ってしまおうなどとまで考え始めている。

これは前借プレゼント制度か。

きっとプレゼントの時期に来てもいざとなると出費を気にして買わなくなるので、本当に必要なら思い切って買っておくのもいいかもしれない。

そんなこんなで、なぜ日本が楽しいかという理由の一つに、普段買い物をほとんどしないのだけど、一気に買い物をする興奮がある

。こっちで、私はセール時もほとんど買い物をしない。子供のものは買うけれど、自分のものは何も買わない。私は何かを買うにもいろいろ店舗を見比べて吟味してから買うので、自分の洋服なども思い付きでは買わない。思えば本当に自分のものをこっちで買わない。。。それを日本では爆買いするから楽しくて仕方がないのだと思う。

 

老化現象の一つだと思うけど、最近は、日本でも見比べるのが面倒になりGUの最新作を買って帰ることにしている(おばさんになった私でも今どき気分を安い値段で楽しめるGUはすごい。そして着やすいものも多い)。そうすると、日本だと、トイレでピチピチの女子大生と服が丸被りしてしまうのだけど、こっちだともはや誰とも被らないから逆に良い。

 

今年も、GUで買ってしまおう。楽しみだー

先日中心部から、薄型タブレットなどなどを背負って歩いていたら、信じられないほど体ががちがちになった。

作業したりするにはやはりキーボード入力できるアイパッドか持ち運び前提のノートパソコンがいるなと一年ほど考え続けて、

日本で買った方が安いよと色んな人にアドバイスをもらっていた。

タブレット一本で探していたけど、たぶん軽さをみるなら、マックの方がいいんだろうなと思う。

こっちで買うより日本で買った方が200ユーロくらいやすいので、やはりどうしても日本で買いたい。

問題は文字の配列が違うこと。日本語配列で買うと、本当に使いにくい。なので、印字付きのキーボードカバーを一生懸命探しているが、勝手これでちゃんと良いのか、よくわからない。でもこれがないと、日本でマックをかっても意味がないだろう。

面倒な何時間もかかる調べものにあたると、ついつい、pがやってくれたらなあと思う。pは理系だし、私よりパソコンのスペックに詳しい。でもpはグレーなので、頼んだものをやるのに一カ月か、その後やってくれないを見ておいた方がいいので、頼むと結果、心がすり減り、自分の負担になる。なので、頼みたいと淡い期待が浮かんでは、結局何もかも自分でできるようになった方が楽なのだと言い聞かせることの繰り返し。自分でやろう。でも、探すのが大変だ。

 

そうこうしていると、アップルウォッチもほしくなってくる。こっちで買うよりはるかにお買い得

 

壊れないように丈夫なケースと、持ち運び用に丈夫で軽いリュック。

 

 

こうして、日本に行くたびに大量にお金を使う。。。。。。。

心理学の本で、人の悪口を言うと、言った本人の評判が悪くなると聞く。それから、そのことを意識して生活するようになった。

人の悪口はドーパミンがでるのか、自分を律しない限り、つい言いたくなることがある。

(日本でもそうかわからないけど、こっちで中年くらいの女性で、会社勤めの人で、悪口ラジオと呼べる人は結構多い。仕事をすると、新人という立場なので、黙って聞いてくれる人が幸いと思うのか、悪口ラジオに出会うことは、日系企業で本当に多かった。現地企業に変えても、案外悪口ラジオの人は多く、完全な出会った偏見だけ言えば、案外黒人女性、特に敬虔なムスリムの人は、すごく悪口をいうんだなと意外だった。これは思ったことを素直に言う国民性だろうか。以外に、細かく管理したがったり、押しつけも偏見も強くて、大正時代みたいだと思ったものだった。案外今のところ働きやすいのは、中東のムスリムの女性か。でも色々大雑把すぎて、お医者さんで中東の人だと、薬の容量があっていないか後で絶対に自分で確認することにしている。なので、私の中で、勝手な偏見で、ここに長く住んでいる働いている日本女性と働いているアフリカ系ムスリム女性はちょっと注意している。対象外の方ごめんなさい。)

 

それはおそらく子供に対してもそう。

子供に対して、色んなことを教えようとすると、気が付くと最後に悪口三昧を言っている自分を恥じたりして、そういうループを変えたいなとも思っている。そして、私は、愚痴や悪口が多い人間なんだと、気が付くようになった。いつも頭の中では愚痴や悪口をいってドーパミン中毒になっていると思う。

 

 

どうしてもいろんな人と関わる必要が出てきた。そのため、嬉しいコミュニケーションやコミュニティーの広がりを感じる一方で、必ず中に、強めで我を通そうとする人が出てくる。昔私は母親からあなたは我が強い、やめなさいと言われていたけれど、最近仏教を意識するようになってからは、この我についても考え続けている。そして、相手の我についても意識するようになった。我を通そうとする中で、我を通したい人は、思い通りにならないと悪口という形で、意見を述べようとしてきたいりする。情報共有みたいな形で、悪口をいい、我を通して、きっと結論自分の我を満たそうとしているな、と後から気が付けるようになってきた。

ちょっと気が使えれば、それを言うと、一生懸命やってくれているこの人やあの人の気分を害さないか、自分を棚に上げすぎていないか、その我の発言の根底は自分が楽をしたいとか、頑張っていると尊敬されたい大切にされたいということではないかと気が付けると思うのに。我の欲にまみれて、忘れるんだと思う。しゃべることは快楽の欲の一つで禁じるべきものとか読んだ気がする。

 

とはいえ、思い返してみると、その我の人に影響され自分も同等のことを言っていた気もする。と、自己嫌悪し、すすめてもらった反応しない練習という本をさっそく読もうと決めた。一日15分は読書ときめているが、本を買っても、ネットサーフィンでくだらない閲覧に2時間浪費することはあるのに、この読書が中々できていない。それならばと今回はオーディオブックにしてみた。作業をしながらでも聞けるし、子供と過ごしながらでも聞ける。これ幸いで、読破したい。楽しみすぎる。日本にも帰れるし、楽しみだ~

 

あと、専門分野のポッドキャストも聞こうと決意する。読むのがだるいけど、聞くならできる。ハードルをやりやすく下げていく。