日本にいたとき、自由に振る舞いたい 自分の感情を抑えずに、変人とか言われるのを恐れずに振舞いたいという潜在的欲求が常にあった。色々思って、この国に来たけれど、実際にはその自由を手に入れることは簡単ではなかった。というか結論としてはそんな国は存在しないし、自分の中に宇宙があるという吉本隆明の言葉と同様に、それは国を飛び出すのではなくて、自分の宇宙で折り合いをつける問題だったのだと気が付いた。
だから、この国に来てもなお、日本に戻ってもなお、異なるコミュニティの中で、女性として、子供がいる母親として、日本人の母親として、その国で得た職業人として、移民として、求められる振る舞いに、息苦しさを感じる日々が続いている。その息苦しさは、こうして書くと自分のメインテーマかもしれない。私のように自分の特性を何より大切にしたいと感じる人間には、どうしてもそのルールに従うことに苦しみがつきまとう。
私が感じる最も大きな苦しみは、コミュニティ内での自分の立ち位置がうまく決まらないことだと思う。白人社会では、距離を取られる感覚があり、移民として一歩踏み込もうとするだけで、流される感覚がある。たぶん、日本で白人が日本に対して疑問を感じてぶつけてきたら、うざいな、気に入らないなら帰ればと思う感覚に近いかもしれない。
逆に、移民同士で話すときには、国民性の違いがやがて顔を出す。たとえ心地よく感じる部分があっても、どこかで自分の中に根本的に違うと感じるギャップが生まれる。こんなふうに、どんな場にいても、この国で、私はいつもどこか浮いているような感覚に囚われている。だから、まだ日本で日本人とのコミュニケーションで感じていたギャップの方が近かったと思うようになった。でもきっと、今恋焦がれている日本に引っ越したとしても、また違うと思うのだと思う。それが怖くて日本への移住に全身全霊でシフトできない。
この国にも日本人がいるが、日本で出会える日本人に比べたら、属しているコミュニティーも、性別も、属性も、驚くほど限定的になる。その中から話し込める程、気が合う人に出会うのは不可能だと諦めている。そして仮に気が合っても、話し込むうちに、みんな結構大変な中、頑張って暮らしているので、やがてうまくいかなくなるということが多かった。私が気が合う人は、自立心が強くて、自力で頑張るタイプの人だから、そういう人は現状かなり余裕がなかったりして、余裕がない同志で話し込むには、余裕が必要だったと振り返っている。日本で出会っていたら違ったかもしれない。
そんな中で、最近ようやく心から気が合いそうな人に出会った。移民二世で弁護士をしているシングルマザー。最初は子供の関係をきっかけに、ある問題について話すようになって近づいた。彼女と話してみて、無理しなくてもこんなに感覚が近しい現地人もいるんだと驚いた。正義感が強くて、何かを黙っていられないところが似ていて、お互いに気持ちが通じる瞬間があったからこそ、この人とは自然に繋がれるんだなと感じた。
でも、それまで私は、自分がうまく振る舞えないことや、異文化の中でどこか自分を出しづらいことに悩んでいた。自分の特性が悪いのか、きっとビジュアルが原因かなど、何度も自己否定に繋がる思考に陥ったこともあり辛かった。でも、この人との出会いを通じて、無理に人間関係を作ろうとするのではなく、気が合う人とは自然に繋がるものだということを改めて感じた。今朝会った二人のママ友とは、やっぱりしっくり来ないなと自己否定につながりそうだったので、三人目にあったこの人と楽しかったのは救いだった。
それでも、まだ心の中で解消しきれないモヤモヤは残っている。多分、一生誰とも分かち合えないのだろう、自分が抱えていくものなのだろうと最近は思い始めている。
結局、私は自分のペースでしか生きられないし、それがどんなに周りから浮いているように見えても、やっぱりそれが一番大切だと思う。
ただ、もう少しだけでも、自分を大切にしながら、異なる価値観の中で無理せず、少しずつでも馴染んでいきたい。
そんな風に思いながら、極楽を探しながら、この国での生活を続けていくのだろうなと感じている。