Gustave Emile Boissonade de Fontarabie
1825年6月7日 - 1910年6月27日
$勝利まで永遠に
フランスの法学者、教育者
日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問等を歴任
勲一等旭日大綬章受章

■人物■

明治初期に来日したお雇い外国人の一人
幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている
司法省法学校のほか、東京法学校(現法政大学)、明治法律学校(現明治大学)、東京大学法学部でも教壇に立ち、東京法学校では教頭も務めるなど、多くの日本法学の草分けの人材が輩出した
行政・外交分野でも日本政府の顧問として幅広く活躍し、旭日重光章(外国人として最初の叙勲[1])、勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章と日本の勲章を三度受章した

■日本法の近代化■

明治政府の最大の課題は日本の近代化であった
そのためには不平等条約撤廃の前提として列強各国が日本に対して要求していた近代法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法の5法典。参照六法)を成立させる必要があった

そこで、日本政府はヨーロッパで評価の高いナポレオンの諸法典をモデルとすることを決め、有意の人物を捜していたが、ボアソナードがパリの日本人留学生に法律の講義をしていたのがきっかけで明治政府により法律顧問として招聘を受けた
彼は当初日本に渡航することに難色を示していたが、パリ大学の教授ポストが当分空かないことなどの事情から日本渡航を決意したといわれている

ボアソナードは、来日後、法律顧問に就任し、司法省法学校において10年にわたってフランス法の講義をしたが、自然法原理主義者であった

彼は、単に外国法を丸写しするような法律の起草には反対して、日本の慣習法などを斟酌して日本の国情と近代的な法制との合致を重んじた態度で法典整備を進めるべきだと主張して、時の司法卿大木喬任から信任を得て、日本の国内法の整備にあたる様になった

■刑事法の起草■

法典の編纂はまず、刑法典と治罪法典(現在の刑事訴訟法)から行われた
その理由は、江戸時代までは各藩が独自の法度を制定し、藩によって刑罰がまちまちであったためその統一が急務であったからである
明治期に入り明治政府が仮刑律(1868年)、律綱領(1870年)、改定律例(1873年)と立て続けに刑事法の制定を行ったのも刑罰権を新政府が独占するためである
しかし、その骨子は従前同様中国法を直接継受して作られたもので、これまでの日本における律と大きな違いはなく、改定律令は西洋刑法思想を取り入れ律的罪刑法定主義ともいわれるほど個別の犯罪要件を個別的に明確に規定していたものの近代刑法と呼ぶに及ばないものであった
そこでボアソナードに母国フランスの刑法、治罪法を模範として刑法典ならびに治罪法典の起草が命じられた

ボアソナードは近代刑法の大原則である『罪刑法定主義』を柱とした刑法、ならびに刑事手続の法を明文化した治罪法をフランス語で起草し、それを日本側が翻訳するという形で草案がまとめられた
起草された草案は元老院の審議を経て旧刑法(明治13年太政官布告第36号)、治罪法(明治13年太政官布告第37号)として明治13年(1880年)制定され、2年後施行されるに至った

明治初期の刑事手続では、江戸時代の制度を受け継いだ拷問による自白強要が行われていたが、これを偶然目にした彼は自然法に反するとして直ぐさま明治政府に拷問廃止を訴えた(1875年)
お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのはボアソナードだけだったと言われている(正式に拷問が廃止されたのは1879年)

■民事法の起草■

刑事法の編纂が決着すると明治12年(1879年)からボアソナードは民法典の起草に着手した
しかし民法の起草は容易ではなかった
古来、日本にも民事裁判は存在していたが、民衆の権利はあくまでも支配者の権力の裏づけがあってはじめて実現されるものであったから民法典が編纂されることがなかった
当事者同士の話し合いで解決できなかった場合に『お上からの恩恵』として仲裁による解決が為されてきたから民法典が必要とされなかったのである

しかし不平等条約撤廃の交渉過程で列強各国が民法典の不在を治外法権の正当化理由としていたことから幕府に引き続き明治政府も民法典の編纂に着手するに至った
箕作麟祥らがナポレオン法典を翻訳し民法の草案が幾度も作成されたが司法卿大木喬任は直輸入的な草案を拒絶し、日本の実態に即した民法典の起草をボアソナードに命じるに至った

民法典の起草にあたって大木は全国の慣例や習俗を2度に渡って調査し『全国民事慣例類集』を編纂した
(これは全国各地の習慣を各土地の長老や有力者から聞き取り調査したものをまとめたもので、幕末から明治期における日本の風俗や習慣を知る上で貴重な史料である)

そして10年の歳月を経た明治23年(1890年)ようやく民法典の草案が完成し民法(明治23年法律第28号・旧民法)が公布された
しかし、ボアソナードが依拠していたフランスの自然法思想は伝統を重んじる日本の国情に合わないとするナショナリズム論陣をはられたこともあって(いわゆる民法典論争)、ボアソナードが編纂した民法は「施行延期」となり、結局施行されることなく民法が改めて編纂されることとなった

しかし、ボアソナード自身が起草した草案は施行されることこそなかったが、民法典の出来る前には、一時事実上の法源として法曹・法学者に研究・利用された
当時の国家試験の主要科目でさえあったという
また、物権や債権、財産権などの原理原則は現行民法に受け継がれ、全条文のうちおおよそ半分くらいはフランス法の影響があると主張する者もいる
そのため、現在においてもフランスに留学する民法学者が少なくない

フランス法を基礎にした民事訴訟法も起草したが、結局のところ、ドイツ法を基礎にしたヘルマン・テッヒョーの民事訴訟法草案が採用され、こちらは日の目を見ることはなかった

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