(佐賀霧代の受難~「虹を紡ぐ人びと」後のこと)
佐賀霧代は和室の布団に横たわり、天井をながめている。身体が動かない。いつから寝ているのか、もう忘れてしまった。霧代は、長い長い夢を見ているような気がする。
でも。
「おばあちゃん、ただいま」
と毎日孫の玲王(れお)が帰ってくると声をかけてくれる。
息子の俊克も、仕事から帰ると必ず顔を見に来る。
夫は‥‥。夫の元次郎(もとじろう)は、どうも家事をしているようだ。なぜなら、起き上がれない霧代に、食事を運んで来るのだ。あの、昭和一桁の、家事などしたことのない夫が。
霧代は食事を出されたり、新しい寝具が来たり、着替えをさせられるたび、あの女が帰って来たのでないか、と疑った。
あの女、俊克を騙して、妊娠して玲王(れお)を生んだ女。
玲王が生まれてまもなく、追い出してやった女。”佳苗”
玲王が学校に行かずに遊び歩くようになったのは、中学に入ってまもなくだった。あの女の血が玲王をおかしくしている。玲王は素直ないい子だったもの。
それが、こともあろうか、息子の俊克が佳苗に会わせると言い出した。不登校を相談に行っていたカウンセラーの柏倉先生が勧めたという。
霧代は反対した。玲王には「佳苗が、玲王を捨てて出ていった」と話して育てた。
玲王が佳苗に会うわけない。会うわけがないのだ。
「おばあちゃん、ただいま」
玲王が帰ってきた。この頃大きくなった。もう俊克の身長を越しそうだ。
「玲王、おかえり」
そういった後、霧代は毎日聞いてしまう。
「玲王、あの女‥‥‥佳苗に会ってないよね?」
玲王はいつもニコニコして答える。
「会ってないよ、おばあちゃん」
玲王の後ろで、心配そうに夫の元次郎が見ている。玲王は振り向いて、元次郎を見る。二人でなにか、うなずきあっているようだ。
「玲王、まさか‥・・・」
「おばあちゃん、俺、宿題あるから、ごめんね」
玲王、かわいいかわいい私の孫。
夫の元次郎が近づいてきて、霧代の身体を少し起こした。
「あなた、玲王は」
「大丈夫。自分の部屋だよ」
遠くで「ただいま」と声が聞こえた。息子の俊克が帰ってきた。
あぁ、私は今、一人息子と孫と一緒にいる。あの女が入るスキなどない。私の、私だけの息子と孫。誰にも渡さない。あの女から、きっと守らなければ。
霧代は元次郎に支えられながら、障子の向こうの木々が赤く染まる庭を見た。
「ただいま、かあさん」
俊克が笑って部屋の前に立っていた。
佐賀霧代のうつ症状が認知症との重なる病となったのは、まだ玲王が中学の頃だった。度重なる心労が、もともとの心の病に重なったのだ。
霧代は毎日夢を見るように、時を過ごす。たくさんのことを忘れていくのに、もうとっくに高校を卒業した玲王も、霧代にはまだ中学生。
だが、どうしてか、俊克の別れた元妻・佳苗のことだけは忘れない。佳苗に孫の玲王を盗られるのではないか、と常に怯えている。かなり、せん妄症状がひどい。
「ねえ、あなた。今度温泉に行きましょう。家族四人で」
「そうだな。この冬は、温まりに行こうか」
優しくなった夫。夫と愛する息子とかわいい孫の四人だけの生活。
「これこそが幸せ」
うつらうつらしていた霧代が眠ったようだ。元次郎は、霧代を寝かせると布団をかけた。
20211205
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