瞬間を「とき」と読むのはキザなやつと決めつけてます。
どうもお久しぶりです、西原です。



自分の写真(polaroid690で撮ったやつ)をみくすぃに載っけるのはどうも気恥ずかしいのですが

今日はそのポラ690についてちょろりと

とか思ってたけどまぁいいや


相変わらずな毎日送ってます。


貯金がびんみょーにへっている

最近卒アルからなんから今までのアルバム見て感慨にも浸ったりもした

1日1冊は表紙の可愛さで選んだ本を読みあさっている
と、まぁ(お察しの通り)素敵なゆるりライフ満喫してます。
(夜はAKBのツッコミ所満載のドラマをみてま~す。

ほんでまぁ言わせてもらうと

バイト代まだあるからあんましバイト探し焦ってない

やっぱり太ったわ、私

表紙かわいいからといって内容が軽くてふわふわなわけじゃない
(ちなみに今日読んだのは壁井ユカコのNO CALL NO LIFEんも~不可思議で壁井ワールドだよん、ふわりんこboyがカッターでザクザクいっちゃうよん)


グロい内容は映像よりも恐ろしいです。

あ、でも映像もイヤよね

昨日告白のDVDみたんやけど優等生girlが冷蔵庫はいっとるんとか余裕でムーリー\(^^)/

DVD、ともに見たやつは「告白」の文庫本所持してるくせに結末知らなかったよ~読んだんではねかったがー?

あの単細胞加減には脱帽だよ~う

生きる権利守るために名前は伏せとくね(^^)アフレンバカリノヤサシサ




「価値観なんてコトバね、気安くつかってほしくないな~」
と、かわいい豆しばのCM風に声に出してよんでみよう!



なんで、なんで、って思うんは根底に「こんくらいは当然でしょ」って思いがあるから

それおしつけよるだけ


なーんて下らない人間様



ただ、全部知った上でもの言ってみろやカス
とかもおもっちゃうよねニコリ



う~む、無神論者がイチバンの有神論者




やはりおもっとることをクリアに瞬時に的確に伝えたいよね
イタリア語であれ、ポルトガル語であれ。

だから習得したいんだけど、社会人になってから挑むかどうかはね~

逃げの1つの選択肢になるのが自分でゆるせんだけやけん

その先が無いという…

相変わらずカオス(正しく発音するならばケイアス)な日記や
人の話聞いてて、私は逆境にたたされても逃げることしかせずになんの成長も遂げんのやろうなぁと惨めになった。

やりたいことをいっちょまえに言う割になんら動かんと、動いた結果ヘマした人間を嘲笑うんよね。
いつからそんな偉くなったんや
どんだけ高いとこから見てたん。


謙虚になれ
知りつくして、死ぬ前までにはのぼりつめときたいんやけど
まだまだなんよ

やっとここまできた。
頭を垂れなさい、稲穂ちゃん
 
機能、先輩を追い出しました。
追い出すってなんだか聞こえが悪いか。送り出してきました!(マイルド!

DVDのことと時間のことで頭いっぱいで先輩の話も正直うわのそら(ゴメンナサイ)、自分も何言ったか、あんま覚えてない。

DVD作る中で、先輩のコメントを一人一人打ち込みよって、やっぱり見よるとこが違うんやなって思った。先輩が後輩を見る視点と後輩が先輩みる視点ってやっぱりちがうんよ。
リョウスケさんとかのコメントとか、熱いもん。うちらが(少なくともあたしが)知ってる、見えてたとこより遥かに深い部分についてメッセージよせていただきました~。
3年生は年も近い分、親しみがわいてる。
んで、今の4年生は、偉大だ。3年生ともまたちがうアジがあってすてき。2コ離れてるぶん、偉大だとおもう。
2年後、あたしたちはあんな貫禄みせれるわけ?

そしてラシャンテで、こうだいのすました顔見てなんかさみしくなった。(つぼがおかしいのは重々承知)1年後、おんなじように追い出されて、この代ともたいして顔合わせんくなるんやな~って思って悲しくなった。ま、あと1年あるし、いっか。

3年生がおらんくなる実感わかん、それがわかんから、さみしい、とかカナシイとかいう感情がおきてきてないなぁ。新歓の時期とかになったらジワジワくるんかな。

幹部おつかれさまでした。2年間お世話になりました~!!
有名大学卒業した彼は内定も蹴り、今まで学んでこなかった分野の本を読みあさり、のめりこんでいった


のと、

大学には進学したが途中で挫折
定職につかず親と同居

って社会的にはイコールなんですか
1冊読み終えた後には、中国に対する「違和感」しか、残らなかった。この本を読むことが、中国のすべてを知ることとは思わないが、少なくとも現在の中国の抱える問題自体には触れることができたのだと思う。こんなにも多くの問題(実態)を一度につきつけられると、この大国には負しか存在しないのではないか、という考えに陥る。実際、今の私にはその感覚しかないのである。特に印象に残っているのは1章のエイズについてと最終章の学歴競争に関しての文章である。
まず、第1章エイズについてである。そもそも、この国でのエイズ問題は政府のやりすぎともとれる宣伝が元で始まったのである。それは誰が見ても明らかであるのに、エイズの感染者は裁判すら起こすことができず、なんの保障も受けられず、さらには周りの人々からの差別の対象になっている。エイズに関する正しい知識、これなしでは感染の拡大は防ぐことができないのに、中央政府は見えないふりをしたままだという。政府がNOといえば誰がどんな運動をしても覆らないのが中国なのである。政府の絶対的な力をまざまざと感じるとともに、恐怖すら覚えた。
この章の22ページに「エイズが恐ろしいのは、病気そのものではなく、それがもたらす人間の腐敗や差別、そして、憎悪や絶望なのだ。」とあるように、エイズは人間の汚い部分を表に引き出してきてしまうのだと感じた。最終的にはエイズそのものとは全く関係のない分野の問題にすら発展してしまっている。その原因を作ったのは中央政府なのだ。これはまぎれもない事実でしかない。そして、血液ビジネスを「黙認」する政府も、間違っているのではないか、とも思った。輸血を通して感染したことも明らかであるし、実際に他国でも同様の事例が過去にいくつも起こってきている。事実を隠ぺいし、隠し通せば、なかったことにできるという、徳のない役人があまりにも多いのも、中国の抱える大きな闇ではないだろうか。45ページには、「政府も役人も頼れない。法も裁判も機能しない(中略)『信頼』『正義』『互助』などの人間性が失われ、社会が崩壊していく恐ろしい現実」とある。このような社会において、なにを希望とし、なにを目指して生きていくのか、これからの中国の行く末を、恐ろしく思う。市場の拡大、経済の急速な発展、しかし日の当たらない場所では貧しい人々がますます貧しくなっていくのである。富は富裕層だけで循環し、貧困層はどんどんと切り離されていく。両者をつなぐ役割、それは、本来は中央政府のなす役目なのではないのだろうか。
最後の章では学歴競争について述べられていた。まず中国では出身や地域や家庭によって受けられる教育の内容、質が違ってくるのだという。私たちの育ってきた環境と確実に違うとこの時点で思い知らされる。私たちの想像する教育の差といえば、公立、私立の差ほどであり、たいしたカリキュラムの差は、感じられない。現に、今の日本では、公立出身の生徒も私立出身の生徒も、進学する大学にはさほど大差はないのが実情である。また、中国の大学入試制度は、地区別に合格者数が決められ、それ応じて地区ごとに合格の基準が設定されるのだという。したがって、合格者数が少なく設定される農村の学生は、都市の学生よりも大学に入りにくくなってしまうのだ。また、日本と決定的に違うのはお金を払って合格点を買うという行為が法律で認められているという点ではないだろうか。さらに、親の8割が、この行為に賛同しているというのだ。親のゆがんだ愛情がこのようなところで表わされているのである。2005年の7月には、13歳の女子生徒がこの行為が原因で自殺したという。遺書には「私が死ねば、10万元は節約することが出来ます。」と書かれていたそうだ。なんとも皮肉な話であると思った。親よりも子供の方が正しいことをみすえる力に満ちているようである。
このようになったのも、一人っ子政策が大きなカギを握っているように思う。両親、祖父母までもが、異常なまでの注意や関心をたった1人の子供に(生まれた瞬間から)注ぎ続ける。その子が将来どのような社会階層に位置するかによって一家の運命が左右されてしまうのだから、当然のことではあるのだが、小さい子供にとってはあまりにも大きなプレッシャーになってしまっているのではないか。事実、親、勉強からの重圧によって慢性的な疲労や睡眠不足に悩む生徒が少なくないようだ。小さい子供にとって、親の期待には是が非でもこたえたいものである。中国に限らず、どこの国でも、小、中学生の手本は親でありその親こそが、絶対的な精神の支えなのではないか。子供の小さな、小さな、世界の中心は親なのである。その親に迷惑をかけることを嫌うのは当然のことであるし、親を失望させたくない一心で、子供は必死に勉強をするのだと思う。今の中国の社会のなかで、好んで自ら勉強する子供たちは何人いるのだろうか。
最初にも述べた通り、読後には強い憤りを感じ、そして(中国と日本を比べるのもおかしな話ではあるが、)日本に生まれてよかったと思わずにはいられなかった。日本に住んでいると、「中国」という言葉を聞くとどうしても良い印象よりは、悪い印象の方が強いように感じる。詐欺事件、海賊版のDVD、粗悪品の売りつけ。私自身、オークションで中国の方との取引で問題を抱えたことがあるのでパッと良いイメージがわいてこないのは事実である。しかし、それは表面的な一個人の印象に過ぎず、実際の「中国」とは、かけ離れたものなのかもしれないとも思っている。
しかし、おわりに、を読み、このような現状の中国にも望みはあるように感じた。言論や、行動の自由を奪われている中でも、正しいことを望む人々は存在しているのである。情報の少ない中でも、活発に活動し続けている人々がいるのである。そのような人々は「人間としての尊厳を取り戻したい」のである。「貪欲に自分の幸せを追い求めている」のである。今の日本に、そのような活力のある、志のある人はいるだろうか。日本に生まれてよかった、と思えるのは今のこの瞬間だけではないのだろうか。実はこの本は中国の問題点を述べただけの本ではなかったのだ。この問題の本質は今の日本に巣くう問題と同じなのである。日本よ、危機感を持て。今の状態に甘んずることなく、きちんと対処していかなければ、きっとそう遠くない未来に日本は崩壊してしまうのではないか、と思わされた。まさに、この本は日本社会に対する警告なのである。