「完全に意図された作り話と、無意識のうちに歪曲され、都合良く解釈されたストーリーと、どこに境界があるのだろう。
受け手にとってみれば、いずれもそれは真実ではない。」


「しかし、真実とは何か。私が信じるか、信じないか、というだけの問題だろうか」




タイムリーですね。


「前進とは、何を基準にしているのか。どこから観測したとき、前進しているとみなせるのか。」



これらの言葉にズキュンと胸を撃ち抜かれた方は
森博嗣のなにかしらを読むことを強くおすすめします。


おじさんなだけあって、深いですよ。
私はすごく好きなタイプの言葉遊びをする人。巧みやし語彙も豊富。さすが物書き。かつ、科学関連も明るいらしい。なんたる…
孤独を好む者がより孤独になるためには、人と関わることが必要になるらしい。
まぁ、相対するものに触れてこそっていう、例のアレですよ。


たった一度きりの女の子と、場所を転々とする料亭でご飯を食べる話。

女の子相手って、いかがわしいものじゃないよ

ただ話す、(無言で存在する場合もある)だけ

本当に一度きり。

タクシーが迎えにきてくれて、定まらない料亭までつれてってくれて、知らない子と料理を堪能する、だけ

どんな贅沢や。


その場しのぎの会話だとしても
後から思い出せない相手だとしても

なんだか居心地がよい。と、この「小山先生」は感じたらしい


うん、なんとなく意味不明

ただ、そんな状況に興味はある。


「楽しく、面白い話を話さなくてはいけない
そこに存在するだけではいる意味がない」

そんな観念を取り払おうとしてくれてる気がした
私も少し軽くなりました。


長く共にいたい人との間に言葉は必要ないと強く思えた、

言葉ってまやかしでしかない。



だけどそれを貫くことがとっつきにくいのとイコールってのを割りきれるかどうかだと思う

そうです、私の問題


だから、なんだろう。


必ずしも言葉巧みな人が素敵で
無口な人がつまらないなんてことにはならんし、そういうのはとっぱらってほしいなぁ


だからってキャッキャしてる子たちをばかにしていいとはならないよ、分かってる。


内なる魅力を軽んずる人が多いのだなぁってさみしくなったよ
もちろん、私含めて、ね。

ただ、気づく機会に巡り会えたし、わかりたいともおもえた

人に分からす、のは私の役目ではないみたいね

だから自力で気付いてほしいなぁ、と。



そろそろ、複雑な部分に向き合うときではないのでしょうか


おせっかいだけど、気付いてほしい人は何人かいます。
良好な自然環境、社会環境の中でしか最良の人格や良好な人間関係が形成できんのなら


大都市の人間関係は全く良好じゃなくて

逆にド田舎、自然たっぷりの中では良好な人間関係しか存在せんってなるよね


そうなの?

ユートピアを目指そう!みたいな本あるけど
理想は現実になりえないから理想であって

仮にオーウェンの協同村か整備されても
そんなにうまくはいかないと思います


アーミッシュの話も出たけど
(やりたいほうだいできる私からしてみると)規律とかガチガチなのじゃあ反発したがるだろうし

実際、アーミッシュの村の若者は自由になりたくてたまらないらしい(TVの情報でしかないけど)


ユートピアも人工的なものでしかないとおもう。


根本的には無い物ねだりでしかないのかなーと少しがっかり


あ、ゼミの話でした
とにかく、原田マハがあつい。
私のなかで、小説ほっこり部門は今
ダントツで原田マハが首位にいる。

カフーを待ちわびてなんて購入に踏みきったし

久々に読んだ、映画に関するこの本なんて、パーフェクトです。

人間臭くて恥ずかしくてダサいけどなんだか憎めない父親。

いや、私はこんなギャンブラーでろくに家に帰ってこん父親なんて余裕でお断りですけど、
映画に関する愛情って部分だけは尊敬。


話はすこしずれるけど、私、軽いオタクが好きです(オタクって、私のプライドのギリギリのとこの言葉)

端からみると異常なくらいの熱意を何かに注げる人。
尊敬です


ボサボサの頭で、毛玉ついてるようなもっさいセーターきている40代。(ただし、ウール100とか、混カシミヤとか、質は分かってる人じゃなきゃイヤ、アクリルはナンセンス)いいじゃないの。オタッキーばんざい。


休日に寝ぼけた顔して珈琲いれながら哲学の話できる人

理想的です。(相手が40代ならもちろん私も40代設定)


って、そんな人に憧れるってのは
そういう人たちの「熱中してる」って部分がかっこいいからよ。

でもデブであぶらぎってる俗にいうオタクは、無理かなぁ…(むこうもこんな私願い下げでしょうが)


「キネマの神様」は登場人物みんながなにかしらの形で映画と関わって、少なからず愛情いだいてる

DVDの普及で映画館でみる映画の価値が下がってたり
雰囲気を楽しむ時間が削られてるってさ。

(そりゃ確かに、壮大なテーマの映画で電気つけたら生活感ありありの私の部屋でしたって興ざめもいいとこやけどさ)



学生には映画館でみる映画ってんな月に1本見れたら満足です。

ましてや古くから下町で愛されてきましたみたいないい雰囲気の映画館がありますかって話です。

いかがわしい映画館と廃れた、もとい、少し活気のない映画館の見分けがつかないのは私の無知のせいでしょうね、きっと。いや、絶対。



父親の話に戻るが私もサニーサイドだけ見て生きていけれたらなーと思った。一瞬ね
けど悪いが、それじゃ私じゃないわ


朗らかな人間像懐きつつ、マツコ・サキにでもなろう

鬱々と生きる、が、ちょうどいい


ではゴウにみならって


合掌
情報化社会はfunney.

個人がA子ちゃんのことを思って発信したとしても
受け取り手はB君のことだと信じてBに伝える
「どう考えてもBのことでしょ」

受け取り手の中の限られた判断材料でしか考えられないから
そんなふうに陥るのは自然?



Bと発信者がギスギスになったとき、媒介者は責任とれるんでしょうか

第三者が見る可能性を見過ごした発信者のミスか

間に勝手な個人の意志が入れば、おかしな方向にしか歪まないのに


狭い、閉じた人間関係には弊害も多い。



なんて見せかけだけかもしれんね。

空虚な友情も片側からみれば立派なのかもしれん

端からみれば異常でも当事者が合意の上なら他が口を挟む必要はない。


関係のないところに気を配ると痛い目に遭いますよって?

でもお節介が存在するが故の友情だろう。

お節介が移動する間に磨かれて、親切心とかって美化されて輝きだすんだろ



いい子の定義が(自分にとって都合の)いい子ってのは寂しいけど真理だね、前話してて自分でも納得できた。

「寂しいけど」って思えるうちは、手離してないと安心する。

いつかそれすら無くす時がくるん?
仕方ない、と割りきるのはまだまだ苦手だ。