アメリカの作家、ジャック・ケッチャムが書いた「隣の家の少女」(Girl next Door)という小説があります。この小説の主人公であり語り手であるのは、12歳の少年です。その少年が両親と共に暮らす家の隣に、同年齢くらいの一人の可憐な少女が妹と共に新たにやってくるところから物語は始まります。その家では一人の中年の女が、何人かの孤児を引き取って育てていて、その姉妹は新たな養女として引き取られてきたのです。

 少年はその姉の方である少女と知り合い、親しくなります。そしてただ美しく可憐であるだけでなく、聡明で優しい性格にも惹かれ、淡い恋心を抱くようになります。

 ところがある時、少年は少女の服に隠された体に無数のあざや傷跡があることに気がついてしまいます。少女はその原因についてはっきりとは言いませんが、少年はその隣の家で夜毎に何が行われているか、その気配を伺うようになります。そして知ってしまうのです。その少女が養母である中年の女に唆され、命じられた少年たちによって、その地下室で毎晩のように性的なものも含む暴行を受け、虐待され続けていることに。少年はなんとかして少女を救い出そうとしたり、警察に通報しようとしますが、うまくいきません。そして自分自身もその地下室に誘い込まれ、その家の少年たちだけでなく、近所に住む大人の男の相手をもその少女がさせられているところを、他の少年たちとともに、なす術もなくただ見ていることしかできなくなります。

 そして、暴行され、虐待され続けたその少女は心も体もボロボロになり、どんどん衰弱していき、ついにはその命を失ってしまいます。

 最後はその数十年後に大人になったその主人公が、そのことを自分の中のいつまでも消えない記憶、逃れることのできない心の痛みとして思い出しているところでこの物語は終わります。

 後に映画化もされサイコホラーの傑作と呼ばれているこの小説は、実は単なるフィクションではありません。アメリカのインディアナ州で起きた実際の事件の綿密な取材と犯罪記録の読み込みをもとに書かれた、ノンフィクション小説なのです。

 

 同じようなものとして、1950年代にトルーマン・カポーティが書いた「冷血」(Cold Blood)という小説があります。そしてこれも、実際にアメリカで起きた凶悪な殺人事件の犯人が刑務所に収容されているところに作者自身が行き、その殺人犯本人から話を聞き取って、それをもとに精緻な心理描写と共にその殺人事件が行われた経緯を再現し、描き出した小説です。「隣の家の少女」も「冷血」も単なる作者の想像力によってではなく、現実に起きた事件の綿密な取材をもとに描かれているため、その心理描写には異様な迫力と恐ろしいほどの説得力があり、どちらも傑作と呼ばれています。

 この他にも、映画化されて有名になったトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」やその続編である「ハンニバル」も、こちらはかなりフィクションの要素が強いとはいえ、同様の殺人鬼、連続っ殺人犯(シリアルキラー)が登場する小説です。「IT」を始めとするスティーブン・キングの一連のホラー小説も、そのような殺人鬼、シリアルキラーに襲われてしまう恐怖を描いたものです。

 このように、アメリカで書かれた小説作品では、もはや一つのジャンルと言えるほどに、単なる犯罪小説を超えた「殺人鬼小説」は、例をあげればきりがないくらいに多くあります。

 映画の世界でも、同様の「殺人鬼映画」は、ヒッチコック監督の「サイコ」に始まり、キューブリック監督の「シャイニング」や、小説を原作とした「羊たちの沈黙」など多数あり、中には「13日の金曜日」など、もはやファンタジーホラー的な娯楽作品になっているものすらあります。

 それはまるで、このような小説や映画作品がアメリカ独自の文化であり、娯楽であるのではないか、と思えるくらいです。そしてそのような作品の中でまず最初に殺人鬼たちの犠牲者になるのは、常に若い女性たち、さらにはもっと年少の少女たちなのです。

 このことは、アメリカ社会のどんな現実を反映していると言えるでしょうか?

 

 もう一つ、映画を取り上げたいと思います。それは2010年に公開された、ピーター・ジャクソン監督による「ラブリーボーン」という映画です。映画の主人公は14歳の明るく活発で、純情な少女です。主演している少女女優の魅力もあって、誰もが一目見て好きになってしまうような少女です。この映画の冒頭では、その少女が一人の少年に恋をし、デートの約束をして、初々しく喜ぶ姿が描かれます。しかしその直後、映画が始まって10分程しか経っていないところで、その主人公の少女自身のナレーションによって、「けれど私は運が悪かった。私はもうこの世界にはいない。私は14の時、近所に住む殺人鬼の男によって殺されてしまった。」ことが告げられます。

 そしてさらにその10分後くらいには、実際にその少女が男によって地下の穴蔵に誘い込まれ、そこで無惨にもその命を奪われていくところが、直鉄的にではなく暗示的にではありますが、描かれます。つまり映画開始後30分も経たないうちに、この映画を観る者は、主人公の明るく純情な少女が、もうすでに殺人鬼によって無惨にその命を奪われてしまっていることを思い知らされるのです。残りの1時間余りは、「その後」の物語を見せられることになります。

 主人公の少女はこの世界を去った後、死者たちが住む「あの世界」と、生きている者たちが住む「この世界」の中間の、まるでファンタジーのように美しい場所にいて、そこから自分が去った後の「この世界」の「その後」を見つめ続けることになります。少女の父親と警察は必死になって少女の行方を探し、犯人をつきとめようとしますが、結局最後まで少女の遺体すら発見できず、殺人鬼の男が証拠を全て消してしまったため、犯人をつきとめることもできず、この事件は未解決事件として迷宮入りしてしまいます。そして残された誰もが時間の経過とともに、少しずつこの事件のことと、いなくなった少女のことを忘れ、それぞれが新しい人生を始めていく姿が描かれていきます。

 私は最初にこの映画を見た時、その意味が理解できませんでした。ストーリーではなく、なぜこのようなストーリーを持った映画が作られ、しかもそれが半ばファンタジー映画のようなものになっているのか、ということの意味がわからず、強烈な違和感を覚えました。なぜこのような無惨で残酷な事件を二度と起こさず、少女の命を救い出すようなストーリーが語られないのか、という違和感でした。

 しかし、最近二度目に見返してみて、これがどんな映画なのか、理解できてきたような気がしました。この映画は一見すると死後の世界を描いたファンタジーのように見えます。映画全体の雰囲気も、これだけ残酷で重たいテーマを扱っているにも関わらず、どちらかといえば明るく優しい雰囲気になっています。しかし、それがこの映画の本質ではないことに、私は気づいたのです。この映画の本質は、無惨にも失われていった可憐な少女たちの命と魂に対する痛切な悼みであり、また同時に諦めでもある、ということに。

 映画の中で、この主人公の少女は実は1973年に実際に起こった殺人事件によって命を奪われた実在の少女であるということ、そしてそれだけでなく、それ以前の1960年代の時点ですでに何人もの同じような10代半ばまでの年齢の可憐な少女たちが同じように殺人鬼たちに命を奪われているのだ、ということが告げられます。つまりこの映画は、そういう少女たちへの追悼の映画なのですが、同時に、そのようにして理不尽に少女たちの命を奪ってしまう殺人鬼たちが現実の日常の中を彷徨っていて、またいつ次の犠牲者が出るかわからない、という現状に対する、「仕方がない。その現実を受け入れ、せめて身近にいる少女たちだけは守りたい。」という半ば諦めに近い、悲しみの映画なのです。そしてそれは、アメリカ社会の至る所にいる殺人鬼たちによって少女たちが連れ去られ、陵辱され、その命まで奪われていくことが、もはや事件ですらなく、「運が悪かった」事故として扱われるしかなくなっている、という現実の反映なのです。

 ファンタジーとは、「現実にはあり得ない」世界を想像することです。ですからこの映画が半ばファンタジーのようなものになっているということは、このような無垢な少女たちが安心して無邪気に遊ぶことができる場所は、もはや空想の世界の中にしかない、というアメリカ社会の現状の裏返しなのではないでしょうか?

 そのことは、この映画のサウンドトラックを聴くとよくわかります。どちらかといえば明るい雰囲気に包まれた映画とは違って、サウンドトラックに収められている楽曲はどれも痛切な痛みに満ちた、死者を弔うような響きと旋律を持ったものばかりなのです。

 Lovely Borneとは、「愛らしく生まれた」あるいは「愛すべきものとして生まれた」という意味です。だからこの映画は、そういう存在であるはずの少女たちを、私たちはどうしてきちんと愛し、守ってやることができずにいるのか、というあまりにも重たく、そして大きすぎる問いを、それぞれの心の中に受け止めるべき映画なのです。

 

 私は、可憐な少女たちの姿は、人間が持ちうる最も美しいものの一つだと思っていいます。古今東西、そのような少女たち、美しく可憐な乙女たちの姿を愛で、憧れ、称える文学や絵画、彫刻、歌、音楽がどれだけ作られてきたでしょうか。つまり、少女たちの存在を愛おしむということは、人間が生み出しうる文化そのものである、と言っても言い過ぎではない、と思います。そしてだからこそ、そんな少女たち、その中でも特に美しく可憐な、そしてまだ咲き開く前の10代半ばまでの無垢な少女たちを好んで狙い、陵辱し、その命までも奪ってしまう無数の冷酷な殺人鬼たちが彷徨っているアメリカという国は、文化を失った国というだけでなく、文化を破壊し、奪い去っていく者たちが住む国である、と言うしかないと私は思うのです。

 

 

Cocteau Twins 「Akice HD」

私たちはいつまでこの「痛み」を抱え続けるのか。

 

 

①Billy Eirish 「No Time To Die」

これは何を悼むための歌なのか。

「天国なんてない。死んではいけない。」

 

 

Greem Day 「Wake Me Up When September ends」

「9月が終わったっら僕を起こしてくれ」とは「9月が終わるまでは、僕を眠らせておいてくれ」ということ。

なぜなら、9月に「あの場所」で起こった「あのこと」を思い出してしまうから。

 

 

 

③This Mortal Coi 「Song For The Sirens」

咲き開く前に無惨にも毟り取られてしまった全ての可憐な花たちのために。

 

 

④ Susie Salmon 「Foever Lost」

「そこにはもういなくても、私はここにいる。そしてここから見ている、あなたたちのこと、私がかつてそこにいた残酷な世界、私たちの命を奪ってしまった世界のことを。」

「永遠に失われた」全ての無垢な魂たちのために、私たちはただ悼むことしかできないのか?

 

 

⑤ting 「They Dance Alone」

もう戻ってはこない恋人や夫、父や息子のことを思いながら、女たちは無言のまま、ただ静かに踊り続ける。

 

 

⑥ John Lennon 「Imagine」

そう言えば、レノンも「あの場所」で命を奪われてています。

 

 

「あの場所」はすでに、「戦場」になっているのかもしれません。

 

 

 秋が深まり、冬が近づいてきていた。私の髪はすっかり腰のあたりまで長く伸び、手入れをされ続けて、自分でもうっとりするくらいの艶が出てきていた。髪が長くなると、私はますます可愛らしい少女人形らしく見えるようになってきていた。私の体も、肌がますますみずみずしく潤い、本当にすべすべで、金色に光っているように見えるほどになっていた。そして私の大きくて丸い緑色の瞳も、ますます可愛らしく、そしてますますいやらしく潤んできていた。

 私はジャンに言われたように、もっとたくさんのことを知り、もっとたくさんのことを感じたい、それも私の心と体の一番深いところで感じてみたい、と強く思うようになってきていた。そうすれば、もっといやらしくなるだけでなくて、もっと可愛らしくも、もっと綺麗にもなれる気がしていたからだ。

 

 雨の日が何日が続いて、庭に出ることができなかったある日、私はジャンの部屋のリビングのソファに、ジャンの隣に座りながら、話をしていた。

「ねえ、もう何日も庭に出ていないし、いやらしいことも我慢しているよ。私、もう我慢できなくなってきちゃったから、今からここで、いやらしいことをしてもいい?」

「そうだな、お前もここ何日かそういうことをせずに我慢しているから、いいだろう。」

「それで、私、ジャンに頼みたいことがあるんだ。それは、私がいつも自分の花びらの奥に突き込んでいるこのいやらしいものを、今日はジャンに、私のお尻の後ろのもう一つの敏感なところに突き込んでみて欲しいんだ。私はそこにも自分で入れたことはあるけれど、入れることはできても、自分で奥まで突き込むことができないんだ。手が届かないから。だからそれを、ジャンに手伝って欲しいんだ。ジャンは前に、手伝って欲しいことがあったら、私がそれをちゃんと言えば、その通りのことをしてくれる、って私に言ったよね。だから、私はジャンにそういうことをして欲しいって、頼むことにしたんだ。私がそうして欲しいって言っているのだから、そうしてくれるよね?」

「ああ、お前が本当にそう望むのであればな。」

「それに、ジャンはこれまでたくさんの女の人といやらしいことをしてきた、って言っていたよね。だったら、すごく上手なはずだよね。私、それも経験して、味わって、自分の体で感じてみたくなっちゃったんだ。ジャンのものを入れるんじゃなくて、私がいつも私の中に入れているいやらしいものを、私の代わりに私のお尻に入れってくれるだけだから、いいよね?」

「そうだな、私もエヴァ、お前の全ての感覚を目覚めさせ、開かせてやりたい。だからお前の可愛らしい尻の後ろの方の感覚も、目覚めさせ、開かせてやりたい。お前がそう言うのなら、私がお前の可愛らし尻の後ろの感覚を開かせてやろう。だだし、わかっているとは思うが、私のやり方はいつものように、容赦はしないから覚悟はしておくんだ。」

「わかった。もう覚悟した。私のいやらしいお尻を、ジャンの好きにしていいよ。」

 

 ジャンは私からいやらしいものの一つを受け取ると、箱の中からボトルを取り出し、その中のぬるぬるする液体をたっぷりと塗りちけ始めた。そして私に、うつ伏せになってジャンの膝の上に体を乗せ、ジャンの手が私のお尻の後ろに届くようにしろ、と言った。私がそうすると、ジャンは同じぬるぬるする液体を、私のお尻を広げて、その後ろの入口のあたりにもたっぷりと塗りつけ、そこを指先で揉みほぐし始めた。

「前の方のお前の花びらの中と違って、こちらの方はお前の甘い蜜は出てこないからな。こういうものをたっぷりと塗りつけて揉みほぐしてやった方がいい。滑りもよくなるし、より感じやすくもなる。もういいだろう。早速入れるが、いいな?」

「うん、いい。もう覚悟しているから。」

 ジャンはすぐに、いやらしくて硬いものを私のお尻の中に入れてきた。そしてしばらくはその入り口の辺りで軽く動かし続けた。

「お前の尻の後ろの入り口のこのあたりが一番敏感で、感じやすいのだ。だから最初は時間をかけてそこを柔らかくし、滑りを良くし、しっかりと広げておいた方がいい。最初は狭いが、こうすればどんどん広がって、しかも感じやすくなる。」

 ジャンはしばらくそれを続けて、私のお尻の入り口が十分に広がってくると、今度は一度に深いところまで突き入れ、それからゆっくりと引いていき、また一気に突き込む、ということを繰り返し始めた。

「ここは感じやすいところが奥ではなく、入り口の辺りなのだ。だからそこを刺激してやればいい。この表面の細かな凹凸がお前の敏感な襞と擦れ合って、気持ちいいはずだ。どうだ?」

「すごく気持ちいい。自分でしていた時とは全然違う。」

「それではこれを続けるから、エヴァ、お前は感じることに集中するんだ。」

 私のお尻はジャンに突き込まれるたびにぎゅっと締まり、ゆっくりと引いていかれるにつれて緩んでいった。私はそれに合わせて息を吐き、また胸いっぱいに吸い込んだ。私の体全体がそれに合わせていやらしく前後に揺れていた。そして私のお尻の中がじわじわと温かくなっていった。

 

 私はしばらくそうやって、ジャンにされるがままに体を預けていた。そして意識をお尻に集中し、ただその快感を味わい続けていた。けれど、そのうち私はまたジャンに言った。

「ねえ、ジャンに私のいやらしいお尻をこんなふうにされている時の私の顔を、ちゃんと見ていて。」

 私はそう言うと、自分から手を伸ばしてジャンの首に捕まり、ジャンの顔に自分の顔を近づけた。

「ねえ、今、私どんな顔をしている?」

「そうだな、とてもいやらしく、とても可愛らしい顔をしている。ずっと15のままの少女人形の、いやらしくて可愛らしい顔だ。」

「ちゃんと嬉しそうな顔になっている?」

「嬉しいと言うより、お前が今尻の後ろの方で感じている快感を、じっと噛み締めているような顔だ。尻をこんなふうにされると、誰もがそういう顔になる。お前も同じだ。」

「このまま続けて、ずっと続けて。私、今、本当に気持ちいいから。すごくすごく、気持ちよくなてきちゃったから。」

 

 私はかなり長い時間、ずっとジャンに身を任せ、そうされ続けた。自分で自分の花びらの奥を突いている時とは違って、一気に高まっていくことはなかったけれど、同じような快感がやむことなくずっと続いていって、少しずつ高まっていく感じがした。だから私はそれ以上は何も言わずに、じっと唇を噛み締め、目を閉じて、ひたすらその快感を感じ、味わい続けていた。

 そして確実に高まっていく快感の中で、ジャンは手首を捻って回しながらお尻の中にねじ込んでくれたり、最後には手の動きを一気に速くしてくれた。私は背中をそり返らせ、お尻と背中をぶるぶると震わせて、いつものように私の開いた花びらの中を甘い蜜で濡らしてしまうことができた。お尻の後ろでも、これくらい気持ちよくなれるんだ、と思った。            

 こうして私の中の全部の感覚が、ジャンによって目覚めさせられ、開かれてしまうことになった。私は見かけはずっと15のままの可愛らしい少女人形だけれど、そしてただ自分で自分を高めているだけで、男の子といやらしいことなんかしたことはなかったけれど、心と体の感覚はもうすっかりいやらしく、そしてとても感じやすくなってしまっていた。