「女優さんですか?」

婚活コンサルをやっている私が、zoomで初対面の男性から
よく言われる言葉です。
※すみません、決して自慢しているわけじゃないんです…




はじめまして。
55歳女性事業主・オト姫と申します。
空手家の主人と大学生の娘の三人家族です。
40代の頃は、読者代表モデルに選ばれたこともあります。
現在は、某都市にて結婚相談所を開業し、
某大手結婚相談所プラットフォーム事業会社で

ベスト3になったこともあります。

とここまで書くと、、、
「凄いですね、美人さんで事業家で羨ましい...」
なんて心の中で思われて、
ちょっと妬まれちゃうかもしれませんが、
実は私、、、
今現在、透析患者なんです・・・
※透析患者になったのは3年前です。

色んな感情が出ちゃいますよね?
妬みが同情へと変化・・・

まあ、
そんなことはどうでも良いんです。
人のことなんて気にしてたら
生きていけませんから。

ただ、
週3日4時間拘束となると、
今までのように上手い具合に
仕事が出来なくなってくるわけです。

何か稼げる道はないかな~と、ネット上のビジネスを
貪るように探しまくりました。

・ツイッターアフィリエイト
・グーグルアドワーズアフィリエイト
・占い養成講座
・動画販売養成講座
・TikTok集客講座
・インスタで稼ぐ!講座 等々

…なんとなく想像が付きますよね?

はい、そうです。
何一つ上手く行きませんでした ショボーンショボーン

ところが、完全に沈没し掛けていた時に、
ある男性ブロガーさんと出逢ったんです。

私のこれまでの生い立ちを聞いて、
そのブロガーさん涙を流してくれました。

そして、言われたんです。


「このギャップ
 (人生の良い部分と悪い部分の差)は、
 きちんと仕上げるとブログでお仕事になるよ」



って。

そして、私は今、
私自身のギャップを作品にして
ブログで稼ぎまくっています。

あなたにも
人生の壮絶な経験
ありませんか??


もしかしたら、
"良いことが起きていない"
かもしれませんよね?

そんなあなたへ
私、力になれるかもしれません...。

私が男性ブロガーさんと出逢って
人生が変わったように
あなたの人生を変えられるパートナーに
なれたらイイなって思って
こうして今もブログを綴っています。

以下、ちょっとだけ
私の壮絶な経験にお付き合い
いただければ嬉しいです。*^^*

毎日怒鳴る父、否定する母の元で過ごす

 

私は4歳下の妹、6歳下の弟の3人姉弟で育ちました。

父は国鉄の職員でした。

当時の国鉄は3日駅に泊まったら非番で帰宅し1日休む、
と言うシフト制でした。

朝になって父が苦虫を潰したような顔で帰宅してくると
家の中にとたんに緊張感が走り雰囲気が変わることを覚えています。

子どもが3人もいればにぎやかになるのは仕方ないと思うのですが
父が寝ている時に3人でキャッキャッと騒いでいると襖がガラッ!と
開き「うるせー!オト姫!お前か!お前が悪い!出ていけ!死ね!」
と叫ばれ頭をボカスカ殴られ背中を足で思いっきり蹴られて「出ていけ!
出ていけ!」と叫ばれるので、近所の公園に行って父の機嫌が直るまで
待ち続ける、と言うのが日常でした。

一番古い記憶で残っているのが小1の時ですが当時から
「早くこんな家出て行きたい、早く結婚して穏やかな家庭を築きたい」
と思っていました。

父の機嫌はいつ悪くなるか本当に不明で、黙って静かにご飯食べながら
テレビを観ているだけでも背後からげんこつでいきなり殴られ
「痛い!なんもしてないじゃない!」と言うと、「うるせー!
お前を見ていると腹が立つ!親なんだから殴っていいんだ!」
と言われていました。

母はそんな状態を見ていても私の味方にはなってくれず
「あんたが悪い」と言うだけでした。

妹も弟も父が怖くてビクビクしていました。

たとえば父が「カラスは白だ!」と言ったとしたら、家族全員が
「はい、白ですね」と肯定しなくてはいけない家庭でした。
「いや、黒でしょ、おかしいよ!」と私が言うと「うるせー!
お前は親に逆らうどうしようもない奴だ!」と殴られ蹴られ、
やめてよ!と泣きながら反抗してさらに殴られる…と言う毎日でした。

当時、ドラマでは主人公が白血病になって病と闘う…とか、
不治の病になって入退院を繰り返すと言う小説が流行っていて
「私も不治の病になって入院したい」と切実に願っていました。

父の暴言、暴力は私が小学校時代はほぼ毎日続いていました。


■突然の血尿、入院

小学校6年生のお正月後の1月5日、高熱が出て突然真っ赤なワイン色をした尿が出てトイレでビックリしました。

それまでそんな尿が出たことがなかったからです。
生理かな、と思いましたが生理ではありませんでした。

あわてて母と近所の行きつけの小児科へ行って尿検査をしたところ
先生が顔色を変えて
「急性腎炎かもしれないからすぐに大きな病院へ行った方がいい」
と言いました。

まだ小2だった妹と幼稚園の年長だった弟を留守番させて母と
代々木の鉄道病院(今のJR総合病院)に行きました。

そこで尿検査してくださいと言われましたがさっき小児科でしたばかりだったので尿が出ず、ジュースを買って(当時はまだ水のペットボトルは売っていませんでした)尿を絞り出しました。

その結果
「急性腎炎です。数値がかなり悪いのでこのまま長期入院になります。
ベッドが空いているので6階に入院です」
と言われ、そのまま入院することになりました。

長期入院って、6年生の卒業記念の鼓笛隊で鉄琴の代表に選ばれていたのにそれにも出られないんだ…と思うと涙が出てきました。

何も持たずに来ていたので、売店でお箸箱とお箸だけ買って車椅子で
看護師さんに6階まで運んでもらいました。

当日の夕方の初めての病院食の味を40年以上経った今でも覚えています。
絶対安静だったので寝ながら食べてください、と言われましたが、
おかずは冷めたコロッケ二つでした。

そのコロッケにまったく味がしなかったのです。
ただの衣とじゃがいも、です。
塩気もまったくありませんでした。

もしかしてもうこれから一生デニーズのハンバーグや焼きそばUFOは食べられないの…?
そのコロッケがあまりにもまずくて、食べられなくて寝ながら涙が出てきました。

当時はインターネットもなく、ゲームもゲームウォッチがやっと販売された頃でゲームウォッチを買ってもらっても単調な動きにすぐ飽きてしまって、入院生活がヒマでヒマでどうしようもなかったです。

毎日尿や便が出るたびに表に〇を付けて行くのですがそれを🌸マークにしたりほんとの💩マークにしたりしながら遊んでましたw

父は私が入院した姿を見てビックリしていました。
二度ほどお見舞いに来てくれていましたが3ヶ月半の間で二度だけでした。

時々、1泊の外泊をしていいですよ、と言われ、家に戻っていましたが
相変わらず父の罵声と物を壊す音が凄まじく、こんなんなら入院してたほうが身体には絶対いいよな、と12歳の私は実感していました。

入院生活も2ヶ月を過ぎるとだんだん慣れて来て、入院していた子供たちを集めてみんなで大貧民(トランプ遊び)などをよくしていました。

ある日の朝、朝食後に大貧民大会が始まったので参加していたところ
「オト姫ちゃーん、採血ですよー」と看護師さんに呼ばれました。

「え!みんな、ちょっと待ってて!」と言って採血室に行き、採血し終わってろくに止血せずに慌てて走って病室に戻り
「お待たせ!」と言ってカードを再び握りしめ、うーむ、次はどの手で行くか…と考えていたら。

「キャー!オト姫ちゃん!大変!!!」
とお友達が叫んだのです。

「え?」
と言ったら、採血したところから血が溢れ出していて、パジャマが真っ赤に染まり、血がポタポタとベッドに垂れていました。

場が騒然となり「ぎゃー!」とか「キャー!」と叫びまくりで
その騒ぎに看護師さんが来てくれて「あらあら」と止血してくれましたw

そんな感じで入院生活はなんとか楽しくやり過ごす日があれば、もうどうしようもない焦燥感に駆られてワーワー泣いて看護師さんを心配させたり、トイレの窓から飛び降りられるかな、と真剣に考えた日もありました。

鉄道病院に3ヶ月半入院したあと、清瀬の小児病院に入院して腎生検(腎臓に直接針を刺して腎臓の状態を診る検査)をしてください、と言われ、転院することに。

小学校は卒業式だけ出席し、中学校は入学式に出て1週間だけ学校に通い、2週目から入院しました。

■腎生検の結果、慢性腎炎と判明

中一の春、清瀬小児病院に入院しました。

腎生検の後は24時間動けなくて絶対安静のため、トイレにも行けません。

36歳の時に二度目の腎生検を受けた時には尿管にカテーテルを入れてくれたので寝たきりで24時間安静も問題なかったのですが今から40年前の腎生検は、寝ながら尿を出さないといけなかったのです。

なので、検査の3日前ぐらいから、寝ながらおしっこする練習してくださいと言われましたがそれがなかなか出来ませんでした。
病室の蛇口を開けてジャージャー水の音を聞けば出るから!と言われて
ましたが出ませんでした。

結局、腎生検したあとも寝ながら尿を出すことが出来ず、特例で身体を起こしてもらってベッドの上でさせてもらった経験があります。

清瀬小児病院には1ヶ月半入院しました。

検査の結果
「IgA腎症です。

慢性腎炎になっています。

このままですと20歳ぐらいには
透析になるでしょう、お子さんは残念ながら産めないと思います。
生きられても40代ぐらいまででしょう」
との診断が。

それを聞いた時愕然としたのと、冗談じゃない、絶対に透析にならないもんね!と心の中で決めていました。

けれど中二で引っ越して不良の多い中学校に転校してから朝礼や体育の時間を休んでいると「サボってんじゃねーよ!」と怒鳴られたり、廊下で後ろから蹴りを入れられたりして、なんだこれ、父と同じ扱いされているな、と子供心に思っていました。

■妊娠したら「あなたの数値じゃ赤ちゃん育ちません」と言われ

高校、英語の専門学校、就職、海外勤務…と時が経つにつれ、腎機能の数値は正常な人よりは若干悪いけれど、でも食事に気を付けながら
疲れた時は早めに休みながら、なんとか透析にならずに過ごすことが出来ていました。

私は2回結婚をしていますが、最初の結婚の時は父と同じように私に罵声、暴言、暴力をふるう人で9ヶ月で離婚しました。

その1年半後に再婚。

再婚して2年目に妊娠判定薬にプラスが出ました。
35歳の時でした。

喜んで病院に行ったら、
「妊娠8週目です。
けれどあなた、腎臓悪いでしょう。
尿検査の数値が良くないです。
この数値だと赤ちゃんは育たないし、あなたもすぐに透析になります。
残念だけど赤ちゃんは諦めてください」
と言われて、ビックリして泣きながら家に戻りました。

二つめの病院に行っても結果は同じで
「腎臓が悪いと赤ちゃんに栄養が行かないから赤ちゃんに障害が出ちゃうかもしれないしお母さんの身体にも負担なんです。
残念ながら諦めてください」
と言われました。

そのことを夫に伝えたら
「オレはオト姫ちゃんと二人の生活でもいいよ、
子どもが絶対欲しいってわけでもないから、子どもは諦めて二人で暮らすでもいいんだよ、オト姫ちゃんの身体が大事だから」
と言ってくれました。

けれど私は後にも先にも妊娠したのはそれが初めてでしたし、なんとかして産まれるんじゃないかな、この子は産まれたがっているよな・・・と思い、ネットで同じ病気でも出産した人いないのかなと探した結果、神奈川の昭和大藤が丘病院でなら出産実績があると見つけて、けっこう無理くり
お願いをして診てもらうことになりました。

けれど、私が出産する方向で決めたら、母から電話が来て
「あんたは子供のころから薬漬けなんだからロクな子供が産まれない。
おろせ!おろせ!」
と叫ばれて、ここは地獄の教団か?と思いましたw

胎教に良くないので、母に
「無事出産出来るまで連絡しません」
と言う手紙を書いて連絡するのを止めました。

すると弟から電話が来て
「かあちゃんが泣いている。
ねえちゃんに嫌われた!と泣いている」
と言われましたが、ほっときましたw

結局、腎機能もどんどん悪化していき、33週で切迫早産になり入院。
点滴を打ちながら一日でも長く赤ちゃんがお腹にいられるよう治療していましたが34週で妊娠中毒症になり、促進剤を使って緊急出産。
血圧が220まで上がり、もう少しで脳溢血で亡くなるところでした、と言われました。

娘は2200gで産まれ、NICUに2ヶ月半入院。
私も1ヶ月半入院しました。

その時に2度目の腎生検をしたところ、腎機能が3割しかもう残っていないと言われ、5年で透析になるよ、と言われてました。

それでも私は娘が大きくなるまでは絶対に透析にならない!とその頃から
Bスポット治療(綿棒を使って喉の奥に直接塩化亜鉛を塗る治療。ものすごく痛い)、手の平の鍼治療、整体、気功、ひと月8万円する漢方、脳科学、電磁波除去…などのあらゆる治療を受けて行きました。

その効果なのかどうかわかりませんが、出産後5年で透析になると言われていたのが結局16年後になったと言う経緯があります。

ただ、娘が小学生のころ、とても問題児で学校で暴れていました。
当時、夫は独立して空手道場を経営し始めていたのと家のローンが
重なったのがプレッシャーでイライラしていて、私と娘に家で当たって
くる毎日でした。

私は自分の仕事も忙しい時期でした。

娘からは毎日のように「飯、手抜きすんじゃねー、ババァ!」「仕事ばっかしてんじゃねー!」「子供の世話しろってんだこのクソが!」と
罵られ、夫からは「もっと稼げよ、他の同業者はもっと稼いでるぞ!」
「お前は能無しだ、オレはすごいんだ」「お前みたいなババアもう終わってるぞ!」などと言われていて、この頃は本当に精神的にも肉体的にも
限界が来ていました。

夫と口を聞くと喧嘩になるので、もう一切口聞かない・・・!と決めたら
なんと7年間も口を聞かない時期が続いてしまったんです。

そして家の空気が険悪だった中、娘が高2になったころ、とうとう透析をすることになってしまいました。


■透析になった当初の心境

透析になった1年目は透析になること自体が受け入れがたく、
ギリギリまで逃げていました。

なんだか身体がだるいけど、透析になるよりましだ、と思っていましたが、腎機能が10%を切ったころに病院側から
「もうそろそろ命の危険が迫ってるんだからシャント作って透析したほうがいいですよ」
と言われました。

最初は本当にやりたくなくて、死んだ方がいいと真剣に思っていました。

シャント手術(静脈と動脈の血管を繋げる手術)は局部麻酔をして行いますが、手術中、麻酔をしているにも関わらず血管を繋げている感覚が痛くて痛くて「痛い、痛い、先生、もっと麻酔足してください」と言ってました。

私はこの20年、結婚相談でたくさんの成婚を出して来てたくさんの人を
幸せにして来たのに、どうしてこんな辛い目に合わないといけないんだ、
神様の意地悪、透析していない人の方がこの世の中ほとんどなのにどうして子供のころからこんな人生なんだ、と泣きながら手術を受けていました。

すると、自分の頭の上で、なんだか声がして来ました。

もうその頃亡くなっていた祖父と母の声がしてくるのです。

まず、祖父の声で

「オト姫ちゃん!がんばって!がんばって!」

母の声で

「オト姫!がんばんなさい!〇〇さん(夫の苗字)は
いい人だよ、あんた幸せだよ!」

と言う声がしてきて、え、おじいちゃんとママだ…と思いました。

当時、夫と不仲状態だったので、自分は夫がいい人だとは
全然思っていませんでしたw

だからこれは自分が言ってる言葉ではないな、と思いました。

シャントを作った翌日、入院先で初めての透析を行いました。

透析の針が採血の針より全然太くて大きくて、こんなの4時間も
刺しっぱなしなんて無理、死んだ方がましだ、と4時間の間ずっと泣いていました。

針刺しの時も痛くて痛くて、こんなの1日置きなんて無理、どこかに行方くらましてそのまま死んじゃいたい、と本気で思っていました。

■透析2年目に脳梗塞に

針先の痛みにも少しずつ慣れて来た透析2年目の3月のことです。

月曜日の透析が終わったあと、帰宅するときにあれ、なんか
足がもつれるな・・・寒いからかな、と思いながら自宅に着き、
お友達と電話していました。

すると「オト姫ちゃん、なんか喋り方ヘンだよ」と言われ
「へ?そう?」と言いつつ、寒いからだよな・・・と深く考えず
寝てしまいました。

翌朝、トイレに行こうと立ち上がったら、右足が前に出ず、つんのめりました。
「あれ?おかしいな」と言おうとしたら
「はれ?おかひーな」と言葉がうまく出ません。

「はれ?はれ?しゃべれないかも」と言葉を出そうとしましたが、
うまく話せないのです。

すぐに透析クリニックに電話して事情を説明したら
「脳梗塞かもしれないからすぐに救急車に連絡して!」
と言われました。

119番に電話したらすぐに救急隊員の方が駆けつけてくれて、
脳梗塞チェックのようなことをしてから、かかりつけの日赤医療センター
まで運んでくれることになりました。

救急車の中で救急隊員の方から

「ご主人呼んで。書類とか色々あるから」

と言われたので、LINEで夫に

「脳梗塞になったから病院来て」

と書きました。

すると夫から

「仕事だから行けない」

と返事が来ましたw

仲が悪くて口聞いてなかったので仕方ないなと思いましたが、
救急隊員にそれを伝えたら、

「えぇっ!?
緊急だからすぐに来い!って書いて!」

と言われ、そう書いたら来てくれましたが、私の顔を見ても

「大丈夫か!?」と一切言わず、無言で気まずそうにしていましたw

ですが、スマホの充電器を持って来ていなかった私に充電器を買ってきてくれたり、翌日には私の愛用しているシャンプーセットを買ってきてくれたり、仲悪いなりに優しい面もありました。

MRIの結果、脳幹脳梗塞だと言われました。
その時は右半身に麻痺が出ていて、足は動かず、右手に力も入らず、
喋るのも難しかったです。

けれど「リハビリすれば良くなるよ」と言われ、翌日から病院で透析、
リハビリ、の日々が始まりました。

最初の数日は車椅子でリハビリ室に行ってましたが、3日目ぐらいから
少しずつ立てるようになり、ゆっくり歩いてリハビリ室に向かってました。

喋ることに関しては1日喋らないとどんどん喋れなくなるからなるべく
電話して喋ってみてと言われたので、毎日違うお友達に事情を話し
30分ずつ電話でのお喋りに付き合ってもらいました。

入院生活は10日で終わり、あとは外部のリハビリに通うことになりました。
10日後にはゆっくり歩けるようになり、喋るのも遅かったけどなんとか
話せるようになっていました。

その年の夏に、国家資格キャリアコンサルタントを取得しようと思い
新宿のスクールに週2回通い始めました。

そこで仲良くなったお友達から

「オト姫ちゃん、そろそろ旦那さんと仲直りしてみたら?」

と優しく諭され、その年の年末に7年ぶりに夫をランチに誘いました。

夫からは最初

「今日は離婚届けが出てくるのかと思ったよ」

と言われましたが私から

「違うよ、お互いの仕事のことについて話そうと思ったんだよ」

と言いました。

私は脳梗塞の後遺症で記憶障害が残り、夫に言われた嫌な事などの
記憶はあるのですがぼんやりしていて夢の中みたいな感じになってしまってるんです。

なので、過去の記憶に対しての恨みや怒りがほとんど無くなっていました。

そのため、夫と普通に話せるようになっていたんです。

年末のランチをきっかけに、7年ぶりに夫と仲直りをし、その後は
ほとんど喧嘩しなくなりました。

夫からも娘が小学生のころの対応を「余裕なくて申し訳なかった、
悪かったと思ってる」と謝ってもらえました。

■透析4年生の今

それから2年…。

今、透析4年生です。

夫とはすっかり元通りの仲良し夫婦になりました。

針刺しは、エムラクリームと言う麻酔クリームを2時間前に塗ることで痛みはほとんど感じなくなりました。

透析中は仕事をしている時もありますがほとんどは歌番組を見たり大好きな「あぶない刑事」のシリーズを見ながらのんびり過ごすようにしています。

透析をしない土日は食べすぎ飲み過ぎで貯水量が増えて月曜日の透析がつらくなることがあるので最近は食べる量、飲む量の調整を気を付けています。

この3年間の間に一人でハワイに行って現地の透析を2回受けたり、今年はオーストラリアに娘と行って2回現地の透析を受けてきました。

透析だからと言って何もかも諦める必要はないのです。

このブログでは透析でも「けっこう楽しい毎日だよね♪」と
思えるヒントや情報をお伝えしていきたいと切に願っています。

ここまでの長文をお読み頂き本当にありがとうございました^^