関特演と俺 | SAPPERの兵隊・抑留記

関特演と俺

 

 数年前手に入れた〔関特演の終末〕片岡耕一郎
(1986.07.28記 )A4用紙9枚の小品を再読する。

 

  概要
   中支派遣軍の下級参謀だった著者はその後満洲に
   移動。1943年夏、大本営は関東軍を増強し、
   ソ連・シベリア侵攻を目論み、著者は急遽ロシア
   語習得を命ぜられた‥‥。

 

 当時、俺は初年兵以来慣れ親しんだ北支・天津に駐留していた。
 

 突然の移動令である。今まででも、命令に予告があるわけではないが、違う。駐留地(天津)に留守隊を置かず、営内に鎮座する護国神社の社も含めてという工兵聯隊丸ごの大移動であった。
 

 移動先は満洲国・営口。1943.08.10である。
 北支派遣軍の師団司令部(北京)も満洲国錦州に移駐と聞く。とにかく軍の大移動である。街には兵隊が溢れていた。

 

 われわれ工兵聯隊は営口郊外に駐留。中隊は交代で河口近くに天幕を張り野営。湿地帯(底なし泥)通過訓練である
 

 秋『関東軍特別大演習』(関特演)が南満洲で行われた。
 

 12月中旬、われわれ古参兵は編成過剰人員として内地帰還。除隊となった。 
「北支から満洲へ、師団丸ごとの大移動」敗戦後長い年月っ疑問であったが、冒頭の「シベリア侵攻計画」を知り納得した次第である。
 

 〔シベリア侵攻計画〕は中止され日の目を見なかったが、もし、実行されていたら‥‥‥。歴史に“たら”“もし”はない。止めておこう。

 

 

 蛇足 
 

 営口の河口の湿地帯は一面の葦原であった。葦の根は互いにからみあい、底なしの泥田に群生している。近所にこの葦を原料としたパルプ工場があった。
 潮の干満の差が大きく、恐らく3メ-トルはあったと思う。
 湿地帯通過訓練には、葦を炭俵状に編み帯状にしたものを湿地帯に敷く。ここを間隔をあけ素早く通過するのである。

 

 

                                      2009.05.07記