備忘録記録の続き。


前々回の❶に、
ほんのちろっさらっと書いた、
憂い事が投下された後のこと。


あの日は、
旦那さまが帰省していて、
京都に桜を見に行く?というので、
京都の有名どころの桜は、
人が多過ぎて、花見どころとちゃうから、
ゆっくり見れられる、
人の少ないとこがいいと提案し、、


亀岡が浮かんだので、亀岡を調べると、
なかなか良さげな場所を見つけ、
ぼたんを連れて、出掛けた。


案の定、人は少なく、
ゆったりと桜を堪能できたから、
亀岡にして、よかった。



天気に恵まれて、気持ちよかったなー🌸



ね、ぼたたん☺️


で、この桜を堪能していたこの時に、
憂い事が投下されたんだが、、


起きる現象は、
一見、本人からしたら、
当たりはキツイけど、
内なる旅へ推し進めるエネルギーで。


外圧という、
他者から働きかけられてるように見えても、
ほんまのとこ、魂の自作自演で、
どんな演出も完璧で、
私達の毎瞬の体験は、
魂が創り出す愛の創造に過ぎない。


とはいっても、
苦しい面持ちの表情を見ると、
こうすれば、ここから抜けるのになと、
わかってしまうが故、
つい、口にしそうになるけど。


そこは、私の意識の世界に嵌め込み、
無意識に思い通りにしたい欲が発動し、
コントロールの域へ、
片足、突っ込もうとしていると、
自覚しているので、ぐっと忍耐。


本人に与えられた現象は、
良い悪い快不快関係なく、
どんなものであっても、
魂からの贈り物なので、
その贈り物の扱い方は、
旦那さまの自由。


どんな旦那さまでも、
変わりはないのだから。


そして、こんな風に事が起こる度、
そこから、私達三つ子の魂の想いを、
ぶわぁ〜っと、感じてしまうから、
そこに、個の私は存在してなくて、
大きな視点から見ているわたしがいて。


『本人の魂は、全てを知っているから、
旦那さまそのままの魂の創造は、
心思うまま好きなように、
瞬間を描けばいい。

本人の己との向き合いに、
私の色(エゴ)をつけてはいけないな。

さおりにできることは、
信じて見守るだけ、
本当にそれだけなんだな。』


あの時、、
経緯の隣に静かに静観していた時、
改めて、強く観じ、心に置いた。


しかし、美しい桜が舞い散るなか、
心ざわつく憂い事に沈む、
旦那さまの心の景色と、
目の前の景色の美しさの、
ギャップ、コントラストが、
同時に存在する景色空間を、
眺めているような感覚で、
私も、複雑な気持ちだった。  


ま、人間だから、しょうがない。


桜を後にし、
好物の道の駅を彷徨き、
自宅へと向かう、
帰路の途中の山の中、
流れる景色の森林浴を堪能していると、
旦那さまが、急に反対側の路肩へ、
思い切りハンドルを切り急停車。


え?どしたん?と聞くと、
水が出てるの見えたから、
ぼたんに飲ませようと思って、と。


見ると、
山からのお水が流れていて、
あ、ぼたんのお水ねと、
急ハンドル急停車に納得。


そして、降りてみると、
え?と、ふわぁ〜と、
いい意味の心の鳥肌が立った。


そこは、
「マリアの泉」と書いてあって。



このマリアの泉に差し掛かる前、
道の看板に、「マリアの墓」と、
書いてある看板を見かけて、
一瞬、そのお墓が気になったんだけど、
旦那さまは、そういうのは苦手で、
まぁ、いつぞやの機会にと流し。


以前から、能勢豊能方面を走ると、
高山右近の名前の看板を、
時々、目にする事があったので、
この時、高山右近の生誕の地と、
集落の辺りに書いてあったのを目にし、、


あぁ、高山右近の生まれの地なんやと、
だから、能勢豊能方面に看板があるんだと、
なるほどと、納得して。


で、高山右近といえば、
仕事で外回りしていた2015年の頃かな。


当時の仕事先の移動中、
京都の長岡京辺りで、
細川ガラシャ所縁の地と旗が、
ずらーっと立っていて、
細川ガラシャとなんぞや?と気になり、
調べたことがあった。


ガラシャは明智光秀の娘で、
キリシタン大名の夫の友人である、
高山右近の影響を受け、
キリシタンへの信仰を、
貫いた女性と書いてあり、
ふーんと、流し程度に情報を受け取り。


で、その高山右近の名前は、
不思議化した2017年頃?かな、
友人の希望で、教会へ行った時、
その教会は、高山右近に所縁あると、
パンフレットに書かれてて、 
あ、ガラシャと繋がりある人やと、
印象に残っていた名前。


高山右近もまた、
信仰を貫いた人だと、
さっき調べたネットに書いてあって、
私は、キリスト信仰ではないし、
特定の宗教は信仰してないけど、
人としての高山右近のエネルギーは、
なんか、共鳴、、わかる気がして。


ただシンプルに、
わたしの内なる信仰を、
右近のような情熱で、
私も生涯、貫きたいと、今、思った。


いや、、貫きたいというより、
勝手に、自動的に貫いてて、
貫きそのものが私であり、
貫きの人生そのものが、
私のエネルギーなんだと感じる。


で、、今、そういや、
教会の写メ撮ったよなと思い出し、
アルバムを遡ってみたら、
その頃の写メ、なんか、興味深いなと。


ちょいと、記録して貼っとこう。


2017年12月14日の写メ。



その写メの直近、

前日(13日)のどUP過ぎる婆とぼたん。



同じく直近(13日)の写メの私で、

誰かを、呼んでいるような絵面。




18日に撮った、ユニコーン。



18日にカテドラル。



20日には「55」。



12月24日には、

たまたま、オリジナル香水の創香日で、

私から感じる創香アロマは、

キリストに因むアロマが多いと、

言われた日だったり。



近しく似たようなに時期に撮った、
今となっては意味深めいた、
とても大切な事を伝えていて、
なんか、見えない導きを感じる写メ達。


2017年は、
真の目醒めへ導かれ、
深まり始めた、そういう年、、なんだと、
ひしひしと感じるな。


この写メを貼りながら眺めていると、
ハートがカイロのように、
あったかくなる。


彼が歓んでる。


わかるよ、うれしいよね、
表の世界に秘めた、
目に見えない言葉なき想いを、
気づいてくれたら、うれしいもん、
わかる、わかる☺️


脱線したけど、
ここからが、記録したいこと。
(え?)


がしかし、既に前置きが長すぎるので、
本題は、お次に。


☺︎