前回の続き。

 

 

今回は、

2022年元旦の昼間、

ぐるぐる巡る想いや、

心に仕舞った想いを、

伝える直前の心の背景の記録。

 

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では。

 

 

元旦の昼間は、

微妙な重苦しい空気が流れる中、

会話は少なめではあったけど、

毎年のいつものように、

元旦営業のお店をぷらぷらし、

特に、行きたいとこもなく、

家へと向かっていた。

 

 

「新年早々、ダメージに与えて、

今度は、傷口に塩を、

塗り付けるような話。

改めて、真剣に言われると、

グッサリ傷つけちゃうよな、、

言いにくいなー(心の溜息)」

 

 

その車中の道中、

ピリピリと緊張感が増し、

心は、メトロノームのように、

ゆらゆら揺らいだ。

 

 

旦那さまは、

近しい人間関係、

(夫婦・子ども・親兄弟)

「心の内の深い部分を聴く」

これが超苦手で、面倒がり、

その場凌ぎの表面でしか接しない人。

 

 

(裏を返すと、私も同じく、

旦那さまとの性の在り方は、

その場凌ぎで生きてきた、

同じ穴の狢のどこか似たもの同士の、

問題の形は違っても、

似た課題を持ち寄った夫婦)

 

 

心のどこかにある感情に、

向き合わされるのが恐いのを、

昔から、感じてて。

 

 

(これも同じく、

深い所に存在する、

互いの恐れの共鳴・合わせ鏡)

 

 

聴きたくないから耳を塞ぐ、

話を逸らす、ぶった切る、

それを分かっているから、尚更。

 

 

怒り出すかもしれんなと、、

(逆切れされたら、キレ返すけど)

 

 

聴きたくない話を、

敢えてするのは、勇気が要るし、

それをわかって言うってことは、

相手を傷つけることだけでなく、

私も傷つく覚悟がいる。

 

 

心のため息が出て、

伝えたい自分と、

伝えることから、

逃れたい自分もいて、心惑う。

  

 

・・・ 

 

 

でも、また、

近い未来には同じ繰り返しは、

もう、嫌だと、

想いの巡りと共に奮い立ち。

 

 

これまでも、

私が一方的に言うことはあっても、

その度、聞く耳持たないからと諦め、

互いの心で真剣に対話することもなく、

うやむやに流してきたのも私。

 

 

心に仕舞っていることで、

繕った上辺の嘘をつている感覚で、

早く、白状したい想いもあった。

 

 

その限界が来たのが、

元旦の出来事で、

あれは、「わたしの心の叫び」そのもの。

 

 

「自分の性の在り方に正直でいて!

もう、心も身体も犠牲にしないで!!」

 

 

その心の叫びを、

嘘なく真剣に伝えたいと思った。

 

 

ただ、単に、

性の在り方を振りかざし、

離婚だ離婚だ!!

と叫びたい訳では、全くなく、

むしろ逆で。

 

 

私の性の在り方を大事にした結果、

旦那さまの意と相容れず、

離婚となるなら、致し方ない、

その時は離婚しましょう、という感覚。

 

 

それを、伝える、白状する、

それだけのこと。

 

 

最後のカードの嘘のない自分を、

知ってもらったうえで、

離婚するしないは、

旦那さまが決めればいい。

 

 

そんな私の想いが、

喉のところまで上がってくると、

途端に、恐れが襲ってきた。

 

 

伝えてしまうと、

長年、歩んできた夫婦の道に、

終わりが来る道が開く気がして。

 

 

この20年近く、

離婚など意識の中から消えて、

閉じられていたゲートが、

伝えることによって、

開かれるようなイメージ。

 

 

そのイメージと共に、

感じたのは。

 

 

私の命は、隣にいる、

旦那さまというこの人に、

ずっと護られ、、

 

 

この大きな護りの中で、

生かさせてもらってきたことを、

まるで、手にまあるく包みまれ、

触れられているような感覚を、

リアルに感じて。

 

 

結婚してから、

ずっとこの護りの中にいて、

その世界から出ることは、

この護りが無くなること。

 

 

私にとって、

それは、恐怖そのものなんだと、

2019年の奈落の底同様、

再び、湧きあがってきて、

子羊みたいに震える自分がいた。

 

 

私にとって、

この恐怖は感じなければならない、

必須科目のようなもので、

2019年の際は、

一旦、この恐怖に蓋をし保留。

 

 

でも、2022年の元旦は、

長年、放置していた想いに限界がきて、

その保留した蓋を開き、

しっかりと向き合わねばならず、

もう、保留する逃げ場はなく。

 

 

そんな逃げ場のない状態なのに、

当時の元旦の頃の私は、

心の土台を整える過程にあって、

具体的にこれ!という、

やりたいこともなく、

こんな状態なら、命の終わりかもなと。

 

 

私にとって、

想いを伝えるということは、

魂を生かすことなので、

生命維持は二の次の感覚で、

身体より魂を取りたかった。

 

 

「お前は死ねるか?」

 

 

そう問われている感覚に、

死ねるよ、と。

 

 

ただ、今生は、

自死はしてはいけない、

その感覚も存在していて、

そこを無視することに、

罪悪感のような気持ちもあった。

(規約違反的な気持ち)

 

 

病気などの流れで、

死に向かうのとは違い、

身体はぴんぴんしてるのに死へ進む、

ある意味、自死に近い感覚だから。

 

 

でも、もう、そんなことも、

どうでもいいや。

 

 

何もかもかなぐり捨て、

例え、路頭に迷おうとも、

死んでしまおうとも、いいや。

 

 

伝えない、後ろめたさで生きるより、

例え、死に向かおうが、

護りたいものを護る、

本当のことを伝えたほうが、

私は、清々しく気持ち良い。

 

 

「もう、死んでもいいや。」

(毎度恒例の極端な私)

 

 

よし!!と、

心を奮い立たせると、

恐怖の極みの内なる震えがMAXで、

すごい緊張感の中、

見えない未来への、

自立という恐怖の中に飛び込む、

死の淵に立つ心境の自分がいて。

 

 

内心震えながらも、

意を決した瞬間、

フッと恐怖を超えた私は、

口を開いた。

 

 

今日は、ここでお終い。

 

 

☺︎