の続き~☆
勝手に振り返りシリーズです(笑)
人の過去に興味ない方はスルーしてね!
アトピー大爆発!で、突然はじまった引きこもり生活。
たくさんのことを学んだ時期であり、わたしの人生の方向性が変わった時期でもありました。
それまではマスコミ関係に行きたいなと思っていたんですが
「人の役にたつ仕事がしたい」「ボランティアをやってみたい」と思うようになりました。
そして突然、ボランティアサークル立ち上げ。
メンバーも、やる内容も決まっていないのに。(笑)
このあたりの、見切り発車というか、とにかくやってから考える!というパターンは今も変わってませんね^^;
そして、活動をする中で、大切な友人ができました。
その中には障がいを持った方もいて、彼とそのご家族から、本当にたくさんのことを教えてもらいました。
ハンデがあることへの、色々な葛藤や苦しみ、そして深い愛情や優しさ・・。
一緒に泣いたり、悩んだり、笑ったり、喜んだり。
気が付けばメンバーも増えていて、男女・年齢問わず、金髪のお兄ちゃんがいたり、サラリーマンがいたり、女子大生がいたり、今思えば不思議な集団。
車いすを借りてきて、実際に車いすに乗って、町めぐりをするツアーを組んだり。
障がいのある方がたと一緒にキャンプに行ったり。
とっても楽しい時間でした。
そうやって関わる中で、「身体障がい者福祉の現場で働きたい!!」と思うようになっていました。
そして夢がかない、社会福祉事業団に就職し、願っていた通りの身体障がい者の方の入所施設に配属されました。
ところが・・・。
外から見ているのと、中に入ってみるのとでは大きな違いがあったことを知りました。
先天性の病気、交通事故、リウマチなど、様々な理由で自宅で生活できない障がいを持った方々が50人暮らしている施設で、入浴や食事や排せつといった身の回りのお世話をするのが私の仕事。
社会福祉は専攻していたものの、介護の勉強なしに飛び込んだので、まずは基礎的な仕事からモタモタ・・。
時間内に最低限のことをするのだけで必死でした。
50人の中には、年の近い若い人もいて、色んな悩みを話してくれたりしていました。
話を聴くことは好きだったし、聴いてあげたい。
でも一人に時間を割いてしまうと、その裏でトイレや着替えを待っている人がいる・・。
仕事が早くない私は、めいっぱいやって、いつもぎりぎり間に合うという状況・・。
そして、いつの間にか、「話を聴いてほしい」という目線や態度に気がつかないフリをするようになっていました。
そしてそんな自分がとっても嫌でした。
2年目、3年目になると仕事はこなせるようにはなり、入所者さんのことは好きだけど、「介護」そのものが好きとはいえなくて
(たまにウンコ投げられることもあったけど!不思議とそうゆうのは許せたんですよね)
施設の廊下のホワイトボードに「今日の予定」をイラスト付で描いたのを、入所者さんから褒めてもらったり
施設の会報誌の担当になって、パソコンに向かって文章を打っている時間の方が嬉しいということに薄々気づき始めていました。
ちょうどそのころ、トルコでアートを通して障がい者の方にアプローチしている施設があり、海外ボランティアで行くことができると知り、ひそかにいつか行けたらなぁと夢を描いていました。
そんな時、働いていた施設に一本の電話が入りました。
「お父さんが心肺停止の状態です」
頭が真っ白になって、言われている「心肺停止」がどういうことか理解できないまま病院に向かうと、すでに顔に白い布をかけられた父がベッドに寝かされていました。
ほとんど病気もなく、健康体だと家族が思っていた父は、いつものように家を出て、出勤する途中の道ばたに倒れ、そのまま天国に行ってしまいました。
お医者さんからは心不全だろう、ということでした。
「こんなことってあるんだな」
あまりにも突然で、茫然とするしかありませんでした。
父は、とても穏やかで優しい人で、小さい頃は「こんな人と結婚したい」と思っていました。
けれど、父に対していつの間にか心に壁を作るようになっていました。
さみしい想いも何度もさせたと思います。
心では感謝しているのに、素直になれないまま過ごす中で、自分がお嫁に行くときに、今までの感謝の気持ちと「ごめんなさい」を伝えようと思っていました。
でもそんな機会はもうこないんだ・・・・・・・
大事なことを伝えなかった後悔。
ごめんね、って言いたかった・・・・ありがとう、って言いたかった・・・。
職場に復帰してからも、顔では笑っていても、心の中は暗く沈んだままでした。
ちょうどそのころ、職場で私が担当していた入所者の男性で、40代のAさんという人がいました。
自転車で走っている時に、脳溢血で突然倒れ、一命は取り留めたものの、全身の自由を奪われた状態になり施設に入所されてきました。
言葉も話せない状態で、どれぐらい周りのことや自分のことも理解しているかもわからない状態でした。
植物状態とも思えたAさんでしたが、わたしや他の職員は、着替えやおむつ交換の度に話しかけながら介助していました。
そのうち、Aさんの目が何か訴えているように感じたり、冗談を言った時には絶妙なタイミングでフッと鼻から息をして笑っているようだったり
「もしかして全部わかってる?」
そう感じて、あいうえお・・と50音を手書きして、文字盤を作り、Aさんに
「わたしが今から、順番に文字を指をさしていくから、言いたい言葉に来たら目を動かしてみてもらえますか」
そういって、「あ」から順番に、読み上げながら文字を指さしていくと・・・・
目を動かして、Aさんからの言葉を拾うことができたのです。
感動的な初めてのAさんとの会話は・・・
なんと
「○○(他の職員の名前)ばか」(笑)
この答えに驚きと爆笑。。。
めっちゃわかってるやん!!職員の名前もちゃんと覚えてるやん!!
それから、Aさんと毎日文字盤を使って会話をするようになりました。
他の人の悪口連発だったりとかなり想像を覆されながらも、Aさんにどんどん表情が生まれて、笑い声まで出るように・・。
介護という仕事のやりがいを感じることのできた出来事でした。
そのうちに、Aさんはヘルパーさんを使って、車いすで外出もするようになり、街へ出ていっては金髪・グラサンという姿に変身して帰ってきたりと、驚かされたり笑わせられたり。
ある日、Aさんが文字盤を使って
「しせつをでてくらしたい」
と言ったことがありました。
わたしはその時正直、「それはさすがに無理じゃないか」と心の中で思いました。
コミュニケーションが取れるようになったとはいえ、首から下は動かすことができず、寝返りも自力ではうつことができないのです。
施設なら常に誰かがそばにいるけれど、地域にでて一人暮らしになればそうはいかない。
でも、まだ40代と若いAさんが、「施設をでたい」と望むことも自然なことでした。
そんな時、他の入所者の方が施設を出て、一人暮らしを始めるということになりました。
交代で訪問ヘルパーの人を付けて、介護に来てもらうということでした。
きっと、本人が一番不安もあったと思います。
だけど、実現するために、色んな人に逢って、準備をして、覚悟を決めて現実に踏み出した。
「できないだろう」と勝手に決めつけて、あきらめる方が、よっぽど無責任だ
と、自分自身を反省しました。
そして
わたしはこれでいいのか?
父のように、ある日突然命を失うかもしれない
Aさんのように、ある日突然身体の自由を失うかもしれない
いま、五体満足で行きたい所に自分の足で行けて
自分の手で文字を書けること
当たり前にできていることが奇蹟なんじゃないのか?
これ以上に条件に満たされていることってある?
父の死で後ろ向きになっていた私でしたが、何があるかわからないからこそ!
「やっておけばよかった」と後悔しないように
今この瞬間に手にしている可能性と幸せを大事にしよう
と、もう一度前を向くことができたのでした。
その後、施設は退職して、トルコの障がい者施設に海外ボランティアに行く予定・・・だったのですが
電撃(?)結婚、そして出産をへて、専業主婦に。
そこでもまたひと波^^;
つ、つづく・・・・・