3月14日の夕方。
まどろみの中で父が生きている世界にいた。
目覚めて死んだことに気付く。
9月の終わり頃に死んで、半年近く経った。

年が明けてからは新型コロナウイルスが経済に与える影響への漠然とした不安感や、実際の会社の業績悪化、自身の進退がうまくいかないこと、等が重なり、父のことを悲しむことは無かった。
思い出すことも減っていた。

悲しみが時間とともに風化して、声をあげて泣くことも減っていた矢先に、当たり前に生きている夢。
何かおかしいと気付いた瞬間に目を開けていて、もう死んでるし、と呟いた。
涙があとからあとからポロポロと零れ落ちて、もう随分父のことで泣いていなかった、と気付く。

生きていて、普通に接することができる、と脳が勘違いしてしまう感覚はきつい。
認めがたい現実を改めて突きつけられる。自分の一部が消えてしまったような喪失感。
いないし。もう会えないし。この世界のどこにもおらへんし。と思い出す。
一昨日のまどろみで夢を見て、昨日の夜と今日の夜は涙が止まらなくなって、仕方なく起きた。
昨日は、流れるままに涙を放置して、寝ようと努力せずに起きていたらいつの間にか眠っていた。
今夜は明日も仕事なので、仕方なくこの文章を綴ることにした。

書いて吐き出すことで少し楽になる。
声をあげて泣くことで楽になる。
いないことが当たり前になるまで、これからもこうして何度も喪うんだろう。

結婚してから、父とは20年以上離れて暮らした。
年に数回会うだけだったから、兄や弟と比べても、生きてるように錯覚しやすいかも知れない。
いないことが当たり前になるまで、同じだけかかるかも知れない。

会えない、ただそれだけが悲しい。
次の週末には牡丹餅を持ってお参りに行く。
糖尿病が肝臓癌を育てた原因なのに、遺族がみんな甘いものを持ち寄るという…まあ、もう死なないしあの世で好きなだけ食べればいいか!