こんにちは松田さおりです
これから初めて販売にチャレンジする方や、今よりもっとスムーズに営業したいという方に向けて、
『それって、今買えますか?』と言われて売れるハッピーセールスをお伝えしていくために、まずは自分史ブログ書いてます
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忘れもしない、2016年12月29日。
年末の仕事納めをして、さあ明日から大掃除だと思って眠りについた私は、早朝、電話の着信音で目が覚めました。
普段電話のない姉からの着信…しかもまだ6時前…。
なんだか嫌な胸騒ぎがしました
私『もしもし?』
姉『朝早くにごめんな~。…なんかな……おかんが息してないらしいねん。』
私『…ええ
何…
なんで
』
姉『可哀想にな…。父親がいつも通り起こしに行ったら息してなかったらしくてな…。とりあえず救急車呼んでるから、また連絡するわ。すぐ出られるようにしといて…。』
電話を切った後、寝起きのうえ突然のことで、頭が回らず
息してないってどういうこと
え死んだ
まさか…ね、こんな突然…
救急車来るって言うてたし、助かるかもしれんってことかな。
え何
とりあえずいつでも出られる用意してたらいいん
普段あまり動揺しない私ですが、さすがに動揺していました
とにかく『連絡する』っ言われたので、いつも通り洗濯機を回し、身支度を始めました。
慌てて飛び出すのは、母が亡くなったと決めつけるようで、なんだか嫌でした
ただ、その思いもむなしく、再び鳴った電話に出ると、姉から搬送先の病院名と、母が亡くなった、との連絡が…
慌てるでもなく、なんだか空っぽな気持ちで、駅に向かい電車に乗りこみました。
あまりに突然過ぎて、『信じられない』という思いが先に立ち、悲しみまで思いが追い付かない。
とにかくボ~っとして、ようやく病院に着くと、次女の姉と双子から、
『来るのが遅いねん!もう警察に移動されたわ』
といきなりかみつかれ…。
え?こんな時まで…?
イヤ、長女の姉から『連絡するまで待って…』と言われたから家で待ってたんやけど…。
とはいえもう言い返す気にもなれず…。
そのまま警察に行き、初めて亡くなった母と対面しました。
母の亡骸を見て最初に浮かんだこと。
『お母さん…人生、幸せやったんかなぁ…。』
以前にも書いた通り、母はヒステリーでふさぎがちな人でした。
私は高校生くらいまで、『あんたはお父さんの子やから』と言われ、距離を置かれて育ちました。
かかわるようになったのは、大学生の時、母が家を出て戻ってきた後。
朝の家事をしていた私と過ごす時間が増えたことで、少しずつ距離が縮まり、話ができるようになりました。(詳しくは33話をご参照ください)
ぽつぽつと話をする中で、母が、本当は結婚後も働きたくて医療事務の資格を取ったけど、父に反対されて働けなかったこと。
また、これは別ルートで知り、後に母と話したことですが、母がバツイチだったこと、流産児が兄だけではなかったこと。
いろんな母の過去や思いを聞き、その葛藤や悩みを理解するようになりました。
そんな月日を重ねる中で、いつしか母は、父の反対にも屈せず、自分が決めた道で精一杯生きている私を応援してくれるようになりました
私が営業部長になった時、
『さおりは私の誇りです』と、突然の嬉しいメールをくれたこともありました
親に喜んでほしくて…生んでよかったと思ってほしくて頑張っていた私にとって、この言葉がどれだけ嬉しかったことか…
離婚後、実家で父に厳しい言葉を浴びせられている時も、
『さおりは私の娘やで!嫌な事ばっかり言わんといたって!!』
と、かばってくれたくれたこともありました。
ようやく母娘らしい関係になれ、喜びを感じていたのも束の間、数年前から発症していたパーキンソン病の悪化に加え、母は60代半ばで認知症になってしまいました。
自分で動くこともままならず、認知機能もどんどん衰えていく母…。
これから第2の人生という時に…
結婚してから、母に、幸せだった瞬間はあったのかな…
育児や父との関係で、しんどい事ばかりじゃなかったのかな…
もしかしたら、考えたり悩むことがなくなって、認知症になった今の方が幸せなのかな…
いろんな思いがめぐりました
ただ、内臓機能などはいたって元気で、
「あと20年は生きるよ」とお医者様にも言われていました。
まともに話はできなくても、健常な時とは違って、穏やかな表情の母を見ていると、不思議と悲しくはありませんでした
父とのことがあり、お盆とお正月という、年に2度の実家帰りでしたが、これからもまだまだ会えると思っていました。
そんな母が、突然、亡くなってしまいました
お葬式の前に斎場に入り、棺の中で眠る母の顔を見ながら、たった一人でお別れのお経を読みました。
それでもまだ実感が湧きませんでした。
ひとつだけはっきりしていたことは、
『もっと会いに来ていればよかった』という悔いの思い。
その思いを少しでも埋めようと、母が亡くなってから、毎週、実家の仏壇に手を合わせに行くようになりました
そして、父の晩御飯を作り、晩酌して帰るようにしました
父と私、もちろん会話なんて全くありません
嫌事を言われるか用事がある時以外、父と普通の会話なんて、かれこれ20年近くしたことがありませんでした
じゃあなぜそんな事をしたかというと、さすがの父も、母が突然亡くなったのはコタえたと思ったからです
姉や双子は近くに住んでいるので頻繁に実家に来れるけど、みんな家族がいるからお昼間のみ。
夜にはみんな帰ってしまう。
人って、静まり返った夜にふと悲しいことを思いだしたり、誰かに側にいてほしくなるんじゃないのかな…
少なからず、私はそうです
父のことははっきり言って苦手だし、普通の父娘の仲には程遠いので、むしろ私は適役ではない
でも、夜、側に居てあげられるのは、時間の自由がきく、独身の私にしかできないことなのかもしれない…。
これまでいろいろあったけれど、母を亡くしてまでも自分の我を通したり、行動を変えれなければ、感謝とか供養とか言う資格がない…
そんな気がして、母の死から、1年間、毎週、実家に通い続けました
そして、その頃仕事では、問題てんこもりの赤字店舗の再生のため、一身に営業を担っていた私
精神的にギリギリだった私を見かね、オーナーが母の供養のために…と、10日間の休みをくれました。
忙しい日常から抜け、仕事のことも一切考えず、10日間、自分の気持ちだけをじっと見つめなおしました。
母がなくなってしまった今、どうすることが一番の供養になるんだろう。
母は私にどうあってほしいと願ってたんだろう。
いろいろ考えた末、9日目に浮かんだ答えは…。
私が笑顔で、私らしくイキイキ生きることじゃないのかな
そのためにはやはり、いつも自分がマイナスに陥る引き金になっている、父との関係を解決するしかない
もうここまで来たら、自分の思ってきたことを素直に伝えて、それで受け入れられなければそれでいい
そう覚悟が決まり、すぐさま手元にあったハガキに、思いを書きました。
こんな内容だったと思います。
お父さん、ありがとうございます。
私は、ある時お兄ちゃんがいたということを知ってから、女として生まれた自分を大切に思うことができませんでした。
そのためにいろんなことで心配を掛けました。
ごめんなさい。
これからは、お母さんの供養をしながら、自分を大切にして生きていきます。
ハガキなのでたくさん書けないし、言葉を最小限にはしょって書くと、こういうヘンな文章になりました
が、何のことを言っているのか、具体的に書けなかった部分も、私のことを本気で想ってくれる父親なら、察しがつくはずと信じて送りました
いすれにせよ、ポストにハガキを投函した瞬間、スッと心が軽くなりました
幼い頃から、父には言えず、ずっとで引きずっていた思いを、解放できた瞬間だったように思います
長い長い、自分の中のわだかまりからの、卒業でした
続く。
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