今日は醍醐寺の御住職との対話の中で、私が大切に思うことを話しました。
その話から御住職が、先日醍醐寺に2025の大阪万博に向けて有識者60人(ニュースゼロの落合さん、鉄道会社、百貨店、建築家の方々)が集まってどの方も最後は普遍的というようなところに行き着きます。
そういうことですね。と
帰ってから目に入ってきたのが岡本太郎のお話
大阪万博は、「人類の進歩と調和」をテーマに開催されましたが、太郎はこのテーマに基づいた先進国の科学技術礼賛を手放しには喜ばず、むしろ人間自体の尊厳と充実を高らかにうたいあげる必要性のあることを認識し〝太陽の塔〞を立てました。太郎は後年次のように述べています。
「人類は進化なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか。
〝調和〞と言うが、みんなが少しずつ自分を殺して、頭を下げあって、こっちも六分、相手も六分どおり。それで馴れあってる調和なんて卑しい。ガンガンとフェアーに相手とぶつかりあって、闘って、そこに生まれるのが本当の調和なんだ。まず闘わなければ調和は生まれない。
だから《太陽の塔》なんだ。EXPO70=進歩と調和だという訳で、テクノロジーを駆使し、ピカピカチャカチャカ、モダニズムが会場にあふれることは目に見えている。
それに対して、ガツーンとまったく反対のもの、太古の昔から、どんとそこに生えていたんじゃないかと思われるような、そして周囲とまったく調和しない、そういうものを突きつける必要があったんだ。」(岡本敏子著『岡本太郎に乾杯』所収より)
私の作ったものは、およそモダーニズムとは違う。気どった西欧的なかっこよさや、その逆の効果をねらった日本調の気分、ともども蹴とばして、ぽーんと、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた。
(岡本太郎著「万国博に賭けたもの」(前掲書所収)より)
「太陽の塔」はそのシンボルである。根源によびかけ、生命の神秘をふきあげる、神像のようなつもり、それを会場の中心に、どっしりと根をはってすえつける。おおらかな凄みで、すべての人の存在感をうちひらき、人間の誇りを爆発させる司祭として。
(岡本太郎著「祭り」(『世界の仮面と神像』所収)より)