今では有名な木村さんのりんご🍎
りんご🍎の季節だからではないのですが
本日来られたお客様にたまたま木村さんのお話になって、随分と前の新聞の切り抜きファイルを見て頂いたんですが
思い出してブログを書いてます。
奇跡のりんご🍎木村さんのりんご
無肥料・無農薬にこだわる自然栽培生産者
木村秋則氏(青森県弘前市)
なぜかと言うと
健康、仕事、子育て、夫婦、家族、色々なことに通じる気がするからです。
私が偉そうなことは何も言えないけど
2003年10月25日現地で井口シェフが話を伺った記事をまとめてみました。
下草の多さがうかがえる木村さんのりんご
なぜ木村さんはりんごを無肥料で作り始めたのか
きっかけ
木村さんがりんごを無肥料栽培で始めたのは20数年前、農作業のなかった日にたまたま入った本屋の棚の一番上の取れなかった場所にあった「自然農法論」である。それを手にして米を無肥料・無農薬で作ったことに強い刺激を受け、りんごでも出来ないだろうかと思い、元来勤勉で好奇心の旺盛な木村さんは、片っ端から農業関係の本を読みあさり、本格的に取り組みだす。
順風満帆に行ったのか?
それは苦悩と挫折の始まりであり、まったく先の見えないドラマの始まりでもあった。最初の年は前年の残留肥料のせいか順調だったが、初夏になると葉が黄ばみ落葉を始める。本来花が咲くのは5月中旬だがこの年は落葉した後9月に花が咲き10月に一口大の大きさと小梅のような実がなり、その年のりんごはまずくて渋く食べられるものではなかった。
それから7年間、葉は出てくるが花は咲かず害虫と病気の闘いだった。毎日毎日害虫取りをした、いくらとっても終わらない、だから農薬の効き目とありがたみを一番知っているのは自分だと言い切る。
収入のない生活が続く、それでも毎日体験している作業を何とか書きとめるため新聞屋さんで余ったチラシを分けてもらい鉛筆で書きとめた資料は実にりんごの木箱2箱になるという、急に小声で話し始めたが実はチラシは鉛筆ではとても書きずらく今非常に判別しにくいと言う。子供にノートを買ってあげることも出来ず、昼は自分のりんご園、夜は弘前の繁華街で働くという生活を余儀なくされる。
家族にはだんだんよくなってきたな、と、言い聞かせるが何をやっても害虫の被害がなくならない、家も二度追い出される自信がなくなり世間からも変人扱いされ、三つ編にしたロープを持って岩木山に登ったが実はロープが短くて用を足さなかったと笑いながら話す。天気のいい月夜の晩で何か全身の全ての細胞が変わったようになり、弘前の夜景を眺めていると本当にきれいだと思いしばらく佇んでいると足元の草木等がりんごの木に見え出す、しゃがんで土をすくってみると、畑の匂いとぜんぜん違う、何にもしていないのに根っこが張リ抜けなかった。畑の草はすっと抜けってしまう、それがヒントになりこの粘り(根張り)が重要だと気ずき、今まで土の上のことしか見ていなかったが大事なのは土の中だと気ずかれた。大豆の根粒菌の作用による土作りの知識があったので6年目に大豆をばら撒いた。その年は落葉が少なく三分の一残り翌年は半分残る。
花が咲き実がなる
8年目で一本の木にだけ7個の花が咲いた、そして2個だけピンポン玉と小指の先ぐらいのりんごが出来た。大豆の効果はありそうだがまだまだ世間の目は変わらない。このころりんごの木一本一本に「ごめんなさい」と声をかけて回った、ついに気が狂ったと思われたのもこのころである。
ところがその翌年畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた、隣人に教えられたがすぐに信用できないのと今までのことがあるので、じかに見るのが怖かったので隣の小屋越しにのぞいてみたら足がすくんで身動きできなくなってしまった、涙は止まらない。
実がなってからも木に「良く頑張ってくれたありがとう」といって歩いていた。今でも一本一本話しかけて歩いている。
自然にホオポノポノになるんですね。
健康ということ
https://ameblo.jp/saori-beauty/entry-12770195561.html