この頃の自分は、大方聖書を読み終えそうなところまで来ていた。

取り合えず1回最初から最後まで読んでみようという当初の目標は達成目前の状態ではあったのだけれども。

 

きっと、それでも、最初から最後までぶっ通しで読む場合、1か所1か所聖書の言わんとする言葉がちゃんと浸透して来なくて、どうしても流し読みの様な状態になってしまう。

それでも、全く1度も読んだ事が無いのと、最初から最後まで読んだ事があるのでは、全く違うどころか、初めて、聖書に何が書かれているのか?を知った衝撃の方が大きかった。

 

そこには、本当に「神の言葉」が書かれているのだ滝汗

 

どんな自己啓発本や、思想の本を読む以上に、人間が生きる上で本当に大切な事が書かれている。

それは、どうすれば、成功するとか、お金持ちになるとか、霊的に成長出来るとか、そんな上っ面のものなんかじゃない。

 

神は一体誰で、何をしていて、人間達に何を望んでいるのか、神は人間達をどう見ているのか。

そして、どうすれば、神の世界に戻る事が出来るのか。

どうすれば、神の祝福の中で生きられるのかという事が書かれている。

 

私がYoutubeを見始めた時、どうしても外国の牧師さんのページが多く、英語での引用が多かったので、私は、日本語訳と英語訳が両方書かれている聖書を買った。

 

 

日本語と英語でかなりニュアンスが変わるな~と読んでいて思う所は正直沢山あった。

特に、この英語版が現代口語訳なので、分かり易い英語を使っているというのもあると思うけれども、神が私達人間を愛するのに比べて、私達人間は、いかに神に対して傲慢で無知なのかという事を本当に痛感させられた。

そして、傲慢で無知なまま、それを脈々と続けて来た結果が、今私達げ「現実」と思ってみている世界であって…ゲッソリ

これほどまでに神という存在がしっかりと明かされているのにも関わらず、本当の神に出会う事が出来ず、呪いの様な世界を人間の当たり前の世界だと思って生きているし、そして、残念ながら知ろうともしない人が多すぎるのは、知られては困る悪魔の策略がしっかりと作用しているのだろうと思う。

 

私が初めて神の声を聞いた時、どうして神は、全ての人の前に姿を現してくれないのだろう?と思った。

そうすれば、抗いようもないほど、神を理解したいと思うし、知りたいと思うのに。

間違った神を崇め続ける事で引き起こされる宗教戦争や。

人間の傲慢さや欲がもたらす崩壊を、どうして神は食い止めようともしないのだろうか?と。

 

今ならなんとなく分かる。

自由意志なのだ。

 

神を求め、神に依り頼む生き方を選択するのか。

神以上に社会やお金や、自分自身を愛する生き方を選択するのか。

 

どうしようも無いところまで行って初めて、人は天に向かって万歳をする。

助けて下さいと神に依り頼む。

 

どうして、救われる人と救われない人がいるのか。

きっと、それは、どこかのタイミングで、自分は出来ている、自分は知っている、自分の人生はこれでいいという奢りが外れた人にもたらされるんじゃないかなーと思う。

 

そして、ただ、洗礼を受けるまでの間、心穏やかに過ごしたいと思ってはいたものの、半世紀近い間自分のそういう奢りや傲慢さ、無知さが自分の人生にもたらした何かをもう一度振り替えざる負えなくなった。

 

自分の中にどんな悪魔がいるのか分からないけれども、ただ、ひたすら生まれてから、今まで私が悪魔へ開けてしまった扉によって犯した罪を書き出して、それをRepent(悔い改め)して、Renounce(放棄する)という事をやった滝汗

 

それこそ、高校生くらいの若気の至りの様な男女交際に始まり、SEXを軽くみていたこと、それらは、虐待によって、何かしらの「愛」を求めていた事に起因するのだけれども、そこには、実は何も無く、単に神の契約に基づかない不要なソウル・タイを造り出す要因になった事、そして、それが芋づる式に繋がるかの様に、自分の人生での出会いを決定していたこと。そして、それが、自分を呪いの世界に留める要因になっていた事…。

 

ここに書いている事は、本当のクリスチャンで聖書に書かれている事を理解している人であれば、分かるだろうと思う。

 

でも、世間一般には、自分の気持ちに従って行動して何が悪いの?

世間に迷惑を掛けていないのに、なんで責められなければいけないの?

私は、悪魔信仰している訳ではなくて、愛と光の伝道活動をしているのに、それの何が悪いの?

人に喜ばれる事が私の歓びなのに、それのどこがいけないの?

 

と言われるのだろう。

そして、私自身も実際そう思っていた。

自分の気持ちに従って行動したり、感情を表現することも赦されなかった世界で生きて来たのだから、それを求めて当然だと思っていた。

 

だからこそ、敢えて思う。

神の法(神が人間に求めるもの、与えてくれたもの)における善悪は、今まで親に教えて貰った事とも、世間一般に言われる事とも全く異なっている。

 

救い(Salvation)は、私達人間を愛する神が、イエス・キリストを通じて本当は、全ての人にもたらしてくれたものなのだ。

けれども、その救い(Salvation)の必要性に気づけない。

その救いがある事も教えて貰えない(悪魔が隠しているから)。

その状態で今の人々は生まれ、その世界で生きているのだと思う。

そして、御多分に漏れず、私自身が、そのドロドロの世界が当たり前の世界という世界観を生きて来たのだ。

 

様々な場面で、「助けて欲しい!」と思う事は多々あるだろう。

けれども、その時助けて貰えなければ、助けて貰えないのだという世界観で生きる事になる。

助けて貰えなかった人は、人を憎み、恨み、社会を恨み、国を恨み、そして神を恨む。

そして、気づかない間に、虐待者・侵略者、社会、お金、対人の奴隷になってしまう。

それは、病気も同じこと。病気である事や何か欠けていると思う部分がその人の人生にもたらす影響がその人の人格になってしまう。

 

なので、どうやって救われたのか、何がきっかけだったのかは、きっと本当に人それぞれなのだと思う。

 

年間何十億も稼ぐ、Youtuberがイエスに出会い、救われた。

極刑に処せられた殺人犯が、イエスに出会い、救われた。

クリスチャンの過程に育ち、ドラマチックな出会いでは無いけれども、将来に対する不安や外見コンプレックスから救われた。

悪魔崇拝の家庭に生まれて、魔女として生きて来たけれども、イエスに出会い、救われた。

イスラム教原理主義者で、アラーの為の戦士だった人が刑務所の中でイエスに出会い救われた。

子供を無くして、哀しみに打ちひしがれていた母親が、イエスに出会い救われた。

 

Salvation(救い)が先で、Faith(信仰)が後から生まれるのか。

Faith(信仰)があって、Salcation(救い)がもたらされるのか。

きっと、どちらでも良いのだと思う。

 

いずれにしろ、神が息子であるイエス・キリストを通して私達に与えてくれたSalvation(救い)は、イエス・キリストを信じるものには全てに与えられる様になっている…滝汗

 

ヨハネによる福音書 3:15-17(近代語訳)

 

それは、信じる者が皆、人の子(イエス・キリスト)によって、永遠の命を得る為である。

 

神は、その独り子をお与えになった程に世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。

 

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。

 

 

ローマの使途への手紙 10:9-12(近代語訳)

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

聖書にも「主を信じる者は、だれも失望することが無い」と書いてあります。

 

マルコによる福音書 16:16(近代語訳)

 

イエスは言われた。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

これ以外にも、救いについては、聖書に多くの記載がある。

でも、何故、イエス・キリストを信じる事で救われるのか?

それは、もちろん聖書に書かれているのだけれどもニヤニヤ

 

私(イエス)の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。

私(イエス)を愛する人は、私の父(神)に愛される。

私もその人を愛して、その人に私自身を現す。

 

これは、ヨハネによる福音書の中でも最も有名な箇所の内の一つでもあると思うのだけれども。

 

私(イエス)を愛する人は、私の言葉を守る。

私の父は、その人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。

私を愛さない者は、私の言葉を守らない。貴方がたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。

 

イエス・キリストを信じる事で、救われる。

救われるってどういう事なのか?

 

イエス・キリストを信じれば、人生が順風満帆に進み始める訳じゃない笑い泣き

イエス・キリストを信じれば、お金ががぽがぽ入って来る訳じゃない笑い泣き

 

いや、順風満帆に進み始めるとも言えるかも知れない。

お金ががぽがぽ入って来る場合もあるかも知れない。

でも、そういう事じゃない。

 

少しずつ、神の目に義(Rightouseness)とされ、過去の罪人であった自分の罪を背負い、イエス・キリストが自分の代わりに死んでくれた事で、
今まで、自分を苦しめていた何か(不安や恐怖、依存や、欲望など、憎しみ・恨み、もしかしたらそれが自分の中に住んでいた悪魔なのかも知れない)から解放され。

神が用意してくれたベスト・バージョンの自分を生きられる様になるという事なのだと思う。

 

自分を盲目にし、自分の耳を聞こえ無くし、

自分の魂がチリヂリになった状態では、いつまで経っても、神が用意してくれたベスト・バージョンの自分を生きる事は出来ない。

 

そして、もし自分の目は見えている。

自分の耳は聞こえている。

自分には何も問題などない。

自分には何の欠けた部分も無い。

というのなら、この瞬間にでも、神はそれを取り上げる事が出来る存在なのだという事を知った時、いかに自分の存在が儚く、現実というものが儚いものなのかを感じた時、自分自身を、命を造り出してくれた存在に真の意味で感謝出来るのかも知れないと思う。

 

教会の礼拝の時、お祈りの会の時。

必ず、祈りの言葉の中に、Salvation(救い)に対する感謝の言葉が含まれている。

 

私は、今まで生きている様で、死んでいた。

それが、神が私達に、イエス・キリストを通じてもたらしてくれたSalvation(救い)を通じて、やっと本当の命を与えて貰う事が出来る。

 

これは、きっと頭で考えても、言葉で説明しようとしてもなかなか分からない事柄なのだと思う。

それぞれが、それぞれのタイミングで、それぞれのシチュエーションで、感じたり、体感する事だから。

目に見えるものよりも、目に見えない事の方がよっぽど大切というのはこういう事なのかも知れない。

 

教会に通い始めてから、例のカナダ人女性に週に一度個人バイブルスタディーを開催してもらっていた滝汗

「救い」をテーマにした聖書の箇所を教えてもらったり、そして「洗礼」を受ける事が決まってからは、「洗礼」をテーマにした聖書の箇所を教えてもらったり。

 

ある時、教会での牧師さんのお話で、聖書は、普通に読んでも読めないという話があった。

確かに聖書の記述やイエスのお話でも、例えを持ちいた話が沢山出て来る。

その言葉通りを捉えても、何も理解出来ない箇所は沢山ある笑い泣き

 

そんなこんなで、私が神の声を聞いてから、洗礼を受けるまでの3-4か月の事を書いて来たのだけれども。

洗礼を受ける前、洗礼を受けた後と、本当の意味でのSalvation(救い)は、今も続いているのだと思っている。

 

イエスを信じていますか?と聞かれれば、信じているので、「救われて」いるのだけれども笑い泣き

 

Justification (正当化)とsanctification (聖化)は、異なるもので。

今まで神に背く生き方をして来た自分が、イエス・キリストを受けいれる事で、一番初めのJustification (正当化)、つまり、神の怒りを買っていた状態を生きていたところから、赦してもらって、神様と和解させてもらったところと言うと分かり易いだろうか?

 

それが、一番初めのステップ。

 

そして、これからも今までの生き方で神に背いて来た事をRepent(悔い改め)て、Renounce(放棄)してというのを繰り返しながら、少しずつSanctified(聖化)して行くんじゃないかと思う。

 

ただ、やっぱり振り返ってみたら、たった3-4か月前の事なのに。

既に、自分は違う自分を生き始め、少しずつ自分が視る世界、生きる世界も伴って変化して来ていると思う。

 

私自身が何かした訳じゃない笑い泣き

何か出来た訳でもない笑い泣き

 

ただ、私がやった事は、聖書を読んで、Youtube動画見てただけ滝汗ニヤニヤ

 

でも、自分の人生を180度変える出会いであり、出来事だった。

きっと、自分の人生だけじゃない、永遠の命を変える出会いであり、出来事だったのだろう滝汗

 

そして、今は会った事もない、知らない人かも知れない誰かが、私のTestemonyを見て、読んで。

いつか少しでも、イエス・キリストの名前を知り、思い出してくれたらなと思う。

 

来年、1年後、5年後…。

 

何をしているのかも分からないけれども。

イエス・キリストと歩む事で、自分がどう変化して行くのか。

自分の人生がどう変化して行くのか。

 

初めて、神の声を聞き、そして救われた事を忘れずに生きて行けたらな~と思う。

 

次回は、洗礼を受ける前後に起こった事を書いて行きたいと思いますハイハイ