振り返ってみると、その時はなんだかあれよあれよという間に、ボーン・アゲーンクリスチャンとの出会いがあって、国教をギリシャ正教とするキプロスには存在しないだろうと思っていた、ペンタコステ系というかエバンジェリカン系というかの教会を紹介してもらい…
![滝汗](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/039.png)
多分、ほそぼそと守られて来たようなこじんまりしたコミュニティーなんだけれども…。
どうして自分がそこにいるのかも良く分からないまま、日曜日の礼拝に参加し始めて…。
そして、自分が参加し始めてすぐのタイミングでゲストスピーカーというか、招待牧師さんが来ていて、かなり高レベルなバイブルスタディーの様な会にもいそいそと参加し…
初めて教会に通い始めてから3週間位で、洗礼受けたいとカナダ人女性に伝えたところ、教会の長老たちとのミーティングを設定してくれて、あれよあれよと洗礼を受ける事が決まった
自分が教会に通い始めてから、洗礼を受ける事が決まったのが3-4週間目位だったと思う。
10月の最終週に洗礼を受ける事になった
そう考えると、強烈なスピードで物事が一気に変化したのだけれども、その時は、なんか、余り何も考えられなかった
初めて、神の声を聞いたのが、確か7月の中ば位で、自分で聖書を読んでワタワタとやっていた7-8月
でも、9月にカナダ人女性と知り合い、キプロスにこんな人達存在するんですか?という様なクリスチャンのメンバーに出会い
今となっては、とても、同じ国に住んでいるのだろうか?と思う位関わる人が変わった。
この頃は、まだまだ自分は本当に「救われた」のだろうか?と。
Salvationに対して不安があって、洗礼を受ければ、そこでアイデンティティーを確立出来るんじゃないか?と思っていた様な気がする。
洗礼を受けたいと言って、教会の長老達と面談した時も、「どうして洗礼を受けたいの?」と聞かれた。
その時に出て来た言葉が、「イエス・キリストの中で自分のアイデンティティーを確立したい。」ってセリフだったんだけど、どういう訳か、口から出て来たセリフは、「IDカードが欲しい。」に自動変換された
にも関わらず長老の一人が、何故か「Exactly!(その通り!)」と言っていたんだが、私の訳の分からない英語が上手く意訳されたという事にしておこう
まー、それはいいとして、本当に本当にクリスチャンとしては、まだまだ幼児どころか、インファント
なのだが、私には、今まで、余りに長い長い間、反対側の世界に住んでいて、その水にすっかり慣れ親しみ過ぎていて、色々な事が衝撃的でしょうがなかった。
多分、長らくクリスチャンの人達からすると、私が今まで住んでいた世界が余りに衝撃的過ぎるのだろうけれども
突然、悪魔の呪いの世界から、神の祝福の世界に連れて来られた様な気がして、へーほー
はー
の連続だった。
ただ、きっと余りに少ないというか、殆ど無に近い、キプロスでも極々希少な真のクリスチャンの人達と関わる事で、少しずつ世界がおかしな世界なのかが分かる様になって来た。
おかしいのだけれども、何がおかしいのか説明出来ない。
苦しいのだけれども、その苦しみから逃れられない。
何をやっても、救われない。
そんな世界を生きていたのだと思うし、実際生きていた。
だからこそ、本当に、どうして救って貰えたのか、誰に感謝すれば良いのか、本当に奇跡としか言いようが無いなーと振り替えると思う。
確かにクリスチャンの学校に行きました。
それだって、20年以上前の話で、イエス・キリストの名前は知っていても、神が誰なのか、イエス・キリストが誰なのか、聖霊が誰なのかなんて、知ろうとも思わなかったし、クリスチャンじゃない国で育って、いままでxxの神と言う名のスピリットに祈ったり参拝する事はあっても、真実だとか、本当の神とか、そんな事考えた事も無く生きて来た中で、本当に、どうして自分にこれほどのラック(運)が与えられたのだろうか?と思った。
もしかしたら、誰かが私の為に祈ってくれていたのじゃないか?と思ったりもするのだけれども、私の周りにクリスチャンの知り合いは一人もいないし
誰かが「宣教活動」をしてくれた訳でも無い
でも、このたった数か月の間でも、その前とその後の自分の意識が余りに違う事は自分でも分かるし、自分の中で一番大きなテーマでもあった「母親」との問題が、この時は、未だ跡形も無くというところまでは行かないまでも、9割型自分の中で納得したというか、手放したというか、今までは自分を形成する要素の内のとても大きな部分を占めていたのが、それがかなり小さくなったところくらいだったんじゃないかなーと思う。
そういう意味でも、自分に取って「洗礼」を受けるという事は、イエス・キリストが自分の罪の為に十字架で死に、罪を贖ってくれた事を受け入れる事で、イエス・キリストの中に自分のアイデンティティーを見出したいという様な感じだった様な気がする…。