カナダ人女性が開催するバイブル・スタディーに初めて参加した。
クリスチャンである女性達が数人集まって、聖書の箇所を学ぶという単純なものなのだけれども、かなり年配の女性から、子育て真っ歳中の女性、そして、ありとあらゆる国籍(キプロス人はいないw)の人がその日は十人以上集まっただろうか?
まー当たり前と言えば当たり前なのだけれども。
自分が普段生息している金融業界に属する人々が醸し出しているエネルギーと、彼らの醸し出しているエネルギーは全く違う
国籍も全く違えど、互いを攻撃したり、承認要求を全面に押し出したり、競争の対象じゃないので、なんか拍子抜けしてしまうというか…
いかに自分が訳の分からない鎧を付けて日々生きているのか?という事を実感する…。
ヘア・ドレッサーの奥さんが、そのカナダ人女性にメール(テキスト)を送ってくれた時、日本人女性で、ヘア・サロンのお客さんなんだけど、つい最近、イエスと会ってクリスチャンになった人がいて~みたいに紹介してくれたらしく
ただ、そのバイブル・スタディーでは、皆が既に「クリスチャン」なので、特段何か聞かれる事は無かったのだけれども、バイブル・スタディーが終わってから、開催者であるカナダ人女性の部屋に残って、こういう経緯で…みたいな話しをした。
神様の声を聴いた時は、自分がクリスチャンになりたいのかどうかも良く分からなかった。
でも、もうこの頃には、クリスチャンとして生きて行きたいと思っていた。
そして、「クリスチャン」とは、キリスト教を信じているキリスト教信者=クリスチャンなのでは無く、生き方とか、ライフスタイルなんだという事は理解し始めていた。
丁度、このバイブル・スタディーが開催された週。
自分が属する業界のエキスポが開催された。
水曜日・木曜日・金曜日みたいな日程だったと思うのだけれども。
あっと言う間に自分の意識は仕事モードに切り替わった
開場で、開場内にいる人を見まわすと、明らかに全く違う周波数を発していて。
それを一言で説明するのはとても難しいのだけれども
いかにお金儲けをするか?
いかに認められるか?
いかに賞賛を受けるか?
狐とタヌキの争いの様な…
でも、それが今まで自分が生きて来た世界で。
その水にずっぷり浸かってしまっていて。
それが、いかに神の視点からみたらおかしな世界なのかも分からず…。
今まで通りの仕事モードになるのに、数秒も掛からなかったと思う。
業界長いので、同窓会のようでしかないんだけどw
喧嘩別れした相手と出くわしたり、仕事モード(利害関係)での繋がりでの関係でしかない相手と関わったりと…。
自分の今までの生き方とか、やり方で物事をすすめていた。
喧嘩別れした相手と和解するチャンスを得たりしたことは、このエキスポ参加のメリットだったのだけれども。
エキスポ参加したその週末…なんか、強烈な頭痛がして来た。
エキスポ開催中から、少しエネルギーレベルが下がり始めたなというのは感じていたのだけれども…。
週末には、なんだかぐったりして、強烈な頭痛が襲って来た
どうしたんだろう?
慣れない事して人あたりしたのかな?
週末、久しぶりに、自分がまだ神の声を聴く前、呪いの世界で生きていた時の様な生霊というかサイキック・アタックを受けた様な状態になり、何も出来なくなった。
相変わらず、なんとか聖書も読んでいる。
お祈りもしている。
私は、何か間違ったのですか?
神様の掟に背いたのですか?
そんな風に思いながら、週末ぐっだぐだのまま何も出来ず、ゾンビの様に過ごした。
月曜日になって、少しだけ樂になったけれども、まだまだ本調子にはなれない…
エキスポが開催された週の事を振り返ってみた。
すると、私の中にポンと「理解」が降って来た。
あの時(エキスポ)の時、私は、貴方(聖霊)の声を聞かなかった。
決して無視していたつもりでは無いのだけれども、聞かなかった。
聞かないということは、無視する・無視しているという事と同じだったんだ…と。
クリスチャンとして生きるという事は、自分を神に捧げるという事。
これを書くと少し誤解があるかも知れないけれども。
私達人間は、本来、神に創り出され、神に命を与えられて生きて(存在)している。
本当は、もともと、自分のものなんかじゃないのだ。
自分の肉体も、自分のマインドも、自分の感情も、自分のもの…と思っているもの全て、本当は神のものなのだ。
今まで私は、神から切り離された状態(罪人)で生きていた時、全てが「自分」だった。
自分で何とかしないといけなかった。
でも、自分や人を頼ってもどうにもならなかった。
ネガティブを循環させるだけだった。
なのに、神に寄り頼まず(何を食べ、何を飲むという事から始まり、誰と会い、誰と仕事するのか…全て全て)、
貴方の声を聞かなかった。意見を求めなかった。
自分で決めるのが当たり前という、以前の生き方に秒で戻ったw
神様、そして、私の中にいてくれている聖霊(ホーリー・スピリット)へ、ごめんなさい…
その瞬間に自分の中にすーっとエネルギーが戻って来た。
というか、エネルギーが補充された
今、この瞬間にでも、神は、私の命を取り上げる事なんて、いとも簡単に出来るだろう。
それなのに、そうしないで、私を生かしてくれている。
それは、私だけに限った事じゃない。
全ての人に言える事。
地球上全ての存在に言える事。
これを、神の愛と言わずに何というのだろう?
黙って赦し、黙って私の人生を見守り、黙って私の人生を導いてくれている。
これだけで、物凄い神の愛なのに…。
それなのに、人間は、あたかも自分で自分を生かしているかの様に。
あたかも自分が自分の人生をドライブしているかの様に。
あたかも自分が自分で決めているかの様に。
神により頼まず、人に寄り頼み。
自分の声を聞いて、行動を決めるという事は。
人の声を聞いて、行動を決めるという事は。
社会の声を聞いて、行動を決めるという事は。
神の声を聞かず、神を無視しているという事なんだと…
5 Things Jesus did NOT say:
① Follow your heart:
⇒ Jesus said: 'Follow me'.
② Be true to yourself:
⇒ Jesus said: 'Whoever wants to be my disiple, must deny himself'.
③ Belive in yourself:
⇒ Jesus said: 'Belive in me'.
④ Live your truth:
⇒ Jesus said: 'I am THE truth'.
⑤ As long as you are happy:
⇒ Jesus said: 'What will it profit a man, if he gains the world and lose his soul'.
自分がクリスチャンになってから、これが、二回目の聖霊(ホーリー・スピリット)からの Conviction だったなと思う…。
ついつい癖で、というよりは、そういうスタイルで生きて来たのだ。
そういう風に生きるしかなかったのだ。
それは、自分が生まれながらに神と切り離された状態(罪人)だったからなのだけれども。
その罪を悔い改め(Repent)て神に立ち返るという事は、そういう今までの生き方やライフスタイルも捨てて行くという事なんだと思った。
もし、これが、世俗的にお金を稼いで成功しているとか、自分の人生に不満が無いとか、なんだかんだ恵まれているよね…という状態で、その生き方を辞めろと言われてもなかなか出来ないのだと思う
そして、世間的に社会不適合者だとか、幸せじゃないとか、もう不幸だらけとか、苦しみしかない状態なら、簡単に手放させるのか?と言われると、そうも行かない時もあるのだ…。何故なら、人は、どれほど苦しかろうが、不幸だろうが、慣れ親しんだやり方が一番楽だから…
なので、意識して、聖霊(ホーリー・スピリット)に確認するとか、神に依り頼むとか、常に、神=イエス・キリスト=聖霊に意識を向けた生き方に変えて行かないといけないのだな‥とその時思った。
そして、その時は全く気付いていなかったけど。
自分や人、世間や、お金に依り頼むよりも、一番信頼出来て、一番確実な存在なのだという事を体感できるまで、その時はもう少し時間が必要だったなーと思う