ロバート・ホーキンズ博士の本に、現代の宗教が一体どの位の周波数なのか?というのを測定した結果が書かれている箇所がある。
今の西洋文化を鑑みても、宗教的に主張されるそれぞれの「神」は、本当に、「神」なのだろうか?と疑問に思う事は多々ある。そして、それを証明するかの様に、この本には、イエス・キリストと仏陀が語った言葉そのものは、この物質次元で測定できる最高レベルの1000の周波数(0~1000まで)で測定されるものの、宗教自体・宗派で測定すると、所謂「愛」のレベルと言われる500にも満たない。
原理主義的な宗派は、パワーかフォースの聖別ラインである200にも満たない(つまり、悪)場合もある。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、仏教に比べて、政治的に多いに利用され捏造された事で、仏教が、それほど周波数を下げなかったのに比べて、1000の半分以下まで周波数を下げた事実を鑑みると、悪が宗教を利用した結果、人々は益々混乱し、神の名の元に殺戮を繰り返し、強奪し、荒廃しつくしているのかもしれないと思う。
個人的に、この箇所の記載については、掲載に物凄い勇気がいる箇所なのじゃないかなと、この本を読んだ時に思った。
この本は、セイント・ジャーメイン財団創始者である、ゴッドフリー・レイ・キングという人によって1930年代に書かれている。本当は、もっと沢山あるのだけれども、最初の3冊が一般公開されていて、最初の3冊は、日本語訳が出ているのだけれども、3冊目では、セイント・ジャーメインとイエス・キリストが降臨した形での講話が記録されている。
そこでも、本来イエス・キリストが語った言葉の意味が語られていいるのだけれども、とても愛に満ちていると私は、個人的に感じた事があった。
そんな事もあって、確かに、旧約聖書も新約聖書も長い年月の間に、もしかしたら様々な改ざんが為されたり、読んだ人・聞いた人の解釈に寄っては異なるものとなってしまった部分もあるのかも知れないけれども、一体、聖書には何が書かれているのだろうか?と思い、再度、聖書を読んでみる事にした。
昔、繁華街をウロウロしていると、良く、「貴方の為にお祈りさせて下さい。」とか「貴方は、今幸せですか?」とか言って寄って来る、怪しげな新興宗教の勧誘が横行していた事を思い出す。さらに、何か立て看板みたいなものにスピーカーを付けて、「キリストは、貴方の為に死んでくれたのです!」とか拡声器で流していたり…。
本当に、「神」というイメージに付けられたラベルが、とても歪んだものになってしまった事は否めないのだなと思った。
そして、そんなとても歪んだラベルが益々人々を「神」から遠ざけてしまったのだろうと思う。
そんなこんなで、再び聖書を読み返しながら思った事は、その人の魂レベルの成長具合というか、霊的覚醒度によって、この聖書は、全く違う内容のものになってしまうという事だと思った。
ある人によっては、神という名を語った悪魔の記録かも知れないし。
ある人によっては、全く意味の分からないものかも知れない。
ある人によっては、ルールをやぶったら地獄へ落ちる手引書やマニュアルなのかも知れないし。
ある人によっては、他者をいい様にコントロールしたり、略奪する為のツールなのかも知れないし。
ある人によっては、イエス・キリストという人の自伝の様なものなのかも知れないし。
ある人によっては、所謂アセンションの手引書なのかも知れないし。
ある人によっては、神の祝福なのかも知れないし。
なので、取扱いがとても難しいのかも知れない。
そんな風に感じた
まだ、自分の意識(自我)が、どこか納得していない部分はあるものの、イエス・キリストが何故地球上に降りて来て、そして、その父である神が何故、イエス・キリストを地球上に送ったのかが少しずつ理解出来て来ると、本当に全ての問題は、人類が神と分断してしまった事に起因するのだと思う。
それは、今世その人が、生まれる前から続いていて、それこそ、何世紀・何千年・何万年も続いているのだと思う。
例のサンタリア悪魔崇拝信者だった人曰く、サンタリアは、アフリカから奴隷として南米に連れて来られた黒人たちが、既に、民族宗教となっていた魔術を使える事を知っていた白人貴族たちが、カソリックの聖人崇拝と組み合わせた事で出来たと言っていたのだけれども。
この人類と神との分断は、もう聖書で言う創世記、この地球上に人(human-being)が造られた時から始まっていたのだなと思った。
そして、私達人間は、何度も何度も生まれ転生し、ちょっとずつ、ちょっとずつ、神へ還る旅を続けている。
もし、私達人類の魂が、何万年、何十万年も前に造られ、そしてどんどん周波数を落とす事によって、神から分断し、神から遠く離れた世界で存在しているのだとしたら、人の一生の時間で、どれほどその周波数を上げる事が出来るのだろう?
そして、人類が周波数をあげる事を阻止する為に、悪魔や悪霊たちが必死にそれを妨害しているのだとしたら、ほんの少しでも、神やイエス・キリストと出会う事は、その人の魂そのものへの祝福なのだと思った。
前回の記事で書いた、忘れられない聖書の言葉の一つ。
それは、マタイ福音書に書かれているもので、とても有名なものなので、クリスチャンじゃなくても知っていると思う。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
探せ、そうすれば見つかるであろう。
門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。
小学生だった私は、ぶっちゃけ良く分からなかった。
今時、訪問販売なんて無いしwと思ってた。
成長して来ると、それは、自分の心の中の事なのだと思う様になった。
聖書では、「何を」求めよとは示していない。
「何を」探せとも示していない。
「どこの門を」叩けと言っているのかも示していない。
だからこそ、勝手な解釈がされてしまうのかも知れない。
でも、きっとイエス・キリストは、こう言ったのだと思う。
「神」を求めよ。「神の愛=聖霊」を求めよ。そうすれば、与えられであろう。
「神の国に至る道を」を探せ、そうすれば見つかるであろう。
「神の国への」門を叩け、そうすれば、開けて貰えるであろう。
そして、十戒は、人間の行動規範などモラル的なものを表しているのでは無く、その戒律を犯す事は、人(魂)を神から遠のかせるだけで無く、自分の中に神や聖霊を受け入れる代わりに、魔物を受け入れる事になってしまうからこそ、神はそれを人々に守れと教えたのだろうと…。
そんな風に、聖書を読んだり、ユーチューブ動画を見たり。
何故だか良く分からないけれども、何かに導かれるかの様に、少しずつ自分の霊的な知識を増やしていた。
自分の思考や感情でも認識出来ないけれども。
でも、確実に何か自分の中にゴリゴリに固まってしまっている何かがあるのは分かってた。
拭っても拭っても、拭い切れない何か。
本当は、今すぐにでも、そのDeliveranceをやって欲しい。
やってみたい。という思いが無かった訳で無い。
ただ、まだ自分の中でどれもピンと来なかった。
自分は、クリスチャンになりたいのか?
洗礼を受けたいのか?
クリスチャンじゃなくても、救済して貰えるのか?
まだまだ、自分の自我(エゴ)的な思考が自分のマインドを掬っていて、真の意味で安らぎを得られていない。
そんな真の安らぎはどこにあるのだろうか?
そんな風に思っていた…
長くなったので続きます…