この記事を書いた後、春分である6月21日を迎えた。

2月の後半に始まった怒涛の日々。
 

それまでは、なんだか良く分からないけれども、きっとそれほど大きな変化を迎える事は無く、人生の時間はそのまま流れて行くのだろうと思ってた。

けれども、あれよあれよという間に様々なものが崩壊して行き、混乱の波に飲まれそうになった。

 

数か月の間すったもんだしながらも、自分の中で折り合いがついて来て、やっとこすっとこ、自分なりの答えを見つけたと思って書いた記事だった。

 

なんだかんだ色々あるけれども、人生なんだから、しょうが無くて、色々な人がいて、様々な事が起こって、哀しみやら苦しみやら、絶望やら、そういったネガティブな感情を抱えたとしても、なんとか自分で自分と向き合い、自分なりの答えを見つけて行ければ割と平穏で穏やかな人生が送れるんじゃないかと思った。

 

そして、今年の初め頃の自分の意識からは各段に成長した自分に、人生の答えを見出したと思っていた。

 

自分の世界は、自分の周波数が造る。

確かに本当にその通りだと思う。

 

けれども、その自分の周波数は一体どこで組成されているのか?

そして、顕在意識・潜在意識・無意識と呼ばれる、「自分」を構成する目に見えない何かの中に、一体何が詰まっているのか?

ほとんど無意識レベルで発せられている周波数が、具現化されてしまってからでは、それを変える事は出来ないのだろうか?

 

春分を境に、再び、自分のエネルギーレベルが駄々下がって行くのを自分でも感じていた。

 

きっかけは、とても些細な事だったと思う。

 

今年に入って、喧嘩別れする事になった相手の事を考えたり、起こった事を自分でも殆ど無意識に頭の中で反芻していたり。

 

かと思えば、全く関係ない事の様に見えるのだけれども、近所のおばさんが飼い始めたヨークシャテリアが、隣の家の犬にかみ殺されてしまった事件が起こった事を聞いたり。

 

自分の住むマンションの家で、野良猫の子猫が車にひかれて死んでいた事だったり。

 

どうして、人間は、こうもおぞましい存在に成り下がれるのか。

どうして、こうも、人間は霊的に無知なのか。

 

なんとも言えない、憤りと虚しさ。哀しみと無力感が自分の中に充満して行く様な感じだった。

 

どれほど、自分の周波数を上げても、私の映し出す世界は、残虐性とおぞましさに満ちていて、それが一体どこから来て、何を意味しているのか、再び混乱の渦の落ちて行く様な気がした。

 

身体が鉛の様に重たくて。

行き止まりに来た様な気がしてどうしようも無かった。

 

それこそ、1年前には自分の魂の「望み」だと思っていた希望、こうしたいという思いがどこかに消えてしまった。

 

ここ数か月で既に自分の価値観が真逆のものになってしまっていたけれども、それ以上に、自分が何故この世界に存在し、一体何の為に生きているのか分からなくなってしまった。

 

そんな時、ユーチューブ動画のお勧めにDeliverance動画が出て来た。

これは、日本語に直訳すると、「救済」とか「救われる」とかという意味なんだけど。

 

その動画の中で、それこそ、映画のエキソシストの様に、今まで普通に話していた人が、手をブラブラさせたり、ブルブルと振るわせたり、とても人間とは思えない様な有様で後ろにぶっ倒れたり、床に転がってもがいたりしていて笑い泣き滝汗滝汗

 

一体なんじゃこりゃ?と衝撃を受けた。

 

今となっては、突然何故そんな動画が出て来たのか良く分からないのだけれども。

そこから、キリスト教で言う、「救済」をやっている牧師さん達の動画が立て続けに出て来た。

 

クリスチャンの家に育った訳でも何でも無く、それこそ、南米の悪魔崇拝信者だった人がイエス・キリストに救われて、洗礼を受け、その後牧師さん、伝道師となった様な人のドキュメンタリーなどもあった。

 

 

なんだか取りつかれた様に、そんな動画を見続けた。

 

私は、幼稚園から大学までプロテスタントの学校に通ってた。

それこそ、幼稚園から高校までは、礼拝の時間が組み込まれていて、毎日20-30分位礼拝の時間があった。

 

学校がクリスチャンの学校だからと言って、洗礼を受けなければいけないという事は無かったけれども。そういえば、野外活動の時も、必ず礼拝の時間があったし、修学旅行では、長崎(隠れキリシタン)に行った事もあった。

 

日々の礼拝の時間は、神父さんが、聖書の箇所について説明したり、お祈りを唱えたり、賛美歌を歌ったりという時間なのだけれども、ぶっちゃけ殆ど寝ていたので、余り覚えていない滝汗

 

今となっては、自分がクリスチャンの学校に通っていた事すら幻の様に思える。

 

その教え、その後の自分の人生にどれほどの影響を与えたのか?と言われると…ドクロ

ただ、どういう訳か、一つだけ今でも覚えている聖書の箇所が一つだけあるのと、主の祈りは未だに覚えている笑い泣き

 

お正月には、氏神様と呼ばれる神社にお参りに行き、誰かが無くなれば仏教のお寺でお葬式をして、埋葬する。八百万の神、龍神とかもいて、現代の日本では、「宗教」が争いや諍い、迫害の理由にならない事が、自分が日本人として生まれた最大のメリットの様に思っていた。

 

さらに、宗教は、人間が人を支配・コントロールする為に作ったり改ざんしたりしたもので、私は、「神」の存在は信じているけれども、所謂「宗教的に神」と言われる存在は信じていない、信じないと言っていたし、思っていた。

 

プロテスタントの学校に行っている間は、聖書の中でも、旧約の創世記と詩編、新約がメインで、それこそ、出エジプト記以降の旧約はぶっちゃけ殆ど記憶にない。そもそも、聖書を最初から最後まで読もうと思った事も無かった。

 

おすすめにあがって来る動画の中で、サンタリアという悪魔崇拝信者だったのが、イエス・キリストに救われて、クリスチャンになったという人がいた。サンタリアという主に南米で信仰されているこの悪魔崇拝がどうやって作られたのかというのを説明していて、所謂日本語で言うところの、霊界・幽界で何が起こっているのかを語っていた。

 

その中で、「人は、どうして自分はこんな目に合い、世界は、おぞましいまま、恐ろしい事は無くならず、悪はのうのうと存在し続け、人々は苦しみ続けるのか?と神を責めるけれども、誰も悪魔を責める人はいない。」と言っているのを聞いた時。

 

 

どういう訳か、自分の中にすとんと何かが入ったというか落ちて来たというか、そんな感じがした。

 

神様がいるから、

神様がずっと私を見守ってくれていたから、私は、生まれ、

私は、虐待を生き抜き、そして、今もこうやって生きている。

 

何一つ、自分には欠けたものなど無かったのだ。

神の祝福があるからこそ、自分は、存在していられるのだと。

 

それでも、なんだか良く分からなかった。

 

神様って何?

見えない。

聞こえない。

感じられない。

 

でも、ふと思い返した時、自分自身の存在さえ、言葉や科学なんかでは説明出来ない事ばかり。

 

私の母親は、確かに私を虐待した。

では、何故、私は、この親を選んだのか?そもそも選んだのか?それとも、たまたまそうなったのか?

 

確かに、母親は、自分の見栄や復習の為に、所謂有名私立に私を入れたかったのだろう。

でも、何故、数ある有名私立の中で、この学校だったのか?

(はたまた、この学校にしか、私は受からなかったのだ真顔

 

何故、私が飼っている犬猫たちは、私の元で来てくれたのだろうか?

様々な国を跨ぐ中、別に日本で犬を飼い始めても、チェコで猫を飼い始めても良かったのに、何故、キプロスだったのだろうか?どんな縁があったのだろうか?

 

この時は、未だ自分の中で葛藤があった。

自分(自我)という意識が何か抵抗している様な感じだったのだと思う。

 

神がいるなら、何故、私は虐待されるという事から守って貰えなかったのだろうか?

神がいるなら、どうしてこの世界は、これほどまでに混乱したままなのだろうか?

神がいるなら、どうして戦争や殺人が無くならないのだろうか?

神がいるなら、どうして生まれて数週間・数か月の子猫が車にひかれて死なないといけないのだろう?

 

ただ、少なくとも、自分の意識の中に、私を造り、私をこの世界に送り出し、私を今この地球上で生かしてくれている、多いなる何か、それをきっと人は神と言うのだろうけれども、そんな存在がいるという事実。

 

そして、私達を祝福し、愛し、守り、導いてくれる存在がいると同時、その真逆の行為によって、人を苦しませ、悲しませ、残虐にし、混乱と復讐の渦に落とし込む存在がいる事を知った様な気がした。

 

長くなったので続きます…滝汗