知人が自殺未遂した。知人と言ってもいいのかわからないほどの関係。一度食事し、あの時は色々と話しを聞かせてもらった。私は知人が好きだった。尊敬していた。共感していた。この人しか、私のことをわかってくれる人はいないと思った。そのことは、分かったような口を軽々しくききたくなくて、言わないでいたけど、そんな気がしてならなかったのだ。

自殺未遂をする前、知人は苦しんでいた。平凡とは呼びがたい道を歩んできたその人は、これまでもずっとそうだったのかもしれない。そして多分、今も。

私は、悲しいけど悲しくなかった。元々、人はいつか死ぬこと、死ぬために生きること、死も選択の一つだというのが私の考えなので、=不幸だともイケナイコトだとも思わない。なので、自殺未遂を知った時、ただ「そっか・・・」とつぶやいた。

念のために言うけど、自殺を勧めるつもりはない。罪は罪だし、その罪は重い。誰かを悲しませるし、誰かを思い浮かべられなくても、誰かはどこかにいる。それでも私が自殺を認める(しかない)のは、死にたいほどの思いを、その苦しさを持ったまま生きろなんて言葉は無責任だと感じるからだ。それともう一つ。私自身、そうまでして生きる価値を見出だせないでいるからでもある。秋葉原事件の加藤智大の弟が自殺する前の言葉「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」の通りなのだ。

知人はドアノブに紐を括りつける首吊りの方法を選んだ。あのやり方は某人気アーティストの影響か、人気があるらしい。苦しまないで逝けると言う。自然死にしろ自殺にしろ、病死にしろ、死に際に苦しみたくないものだ。苦しまないで逝けるのはいい。

でも、知人が未遂に終わったのは、自身が暴れて、紐が緩んでしまったせいだった。暴れて紐を緩めてしまう程度には、苦しいということだ。それではダメ。苦しまないで逝きたい。

そもそもその前に、お風呂には入っておきたい。首吊りで死ぬと、体液が漏れるらしいので、その前にせめて体くらいは清めておきたい。全裸というのも恥ずかしいので、服も着たい。服は、普段着っぽい上品なものがいい。

これこれ。この服。調度いい。首吊り用の紐なんて家にそうないので、タオルで代用する人が多いらしいけど、タオルよりもiPhoneの充電用USBケーブルの方が首に食い込みそうだし、これならスルリと緩むこともなさそうだ。でも少し短いから、Macのケーブルの方がいいかもしれない。

ドアノブに括りつけ、首にかけたら、体を倒す。この時、おしりを浮かすようにするのがコツ。手先や唇からビリビリと体が痺れて、意識が遠のいていく。涙のせいか、視界が