私は早いけど、このブログは長いです。何が早いかはおいておいて、凄くマジメな内容なんで、私のイメージが崩れてしまう恐れがあります。

どんなことを書いていても、うんこちんちんぱいおつちゃいちーな枯れ女であることを忘れないよう、気をつけてお読みください。

と、いうわけで・・・・・

リリーッス!あなたのポケットモンスター・サオリリスです。
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時間を沖縄に戻します。
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キュルキュルキュル…(巻き戻す音)

地方に行けば戦争関連の場所に立ち寄っています。私です。
沖縄は、日本で唯一、地上戦が行われた場所ですから、たくさん、そういう場所やものが残っているわけです。

もちろん、行ってきました。

悲しいことに、行き先選択肢がわんさかある沖縄で、私は、「ひめゆり」に関する場所を中心に巡ることにしました。

「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた女学生たちが青春をなげうって奉仕したガマや、
追い込まれ、アメリカ兵に殺されるくらいならと身を投げた崖も、観光地として残されています。

↓そのガケんとこ
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こんなにキレイな海ですが、この海の中、少女達が誇りを持ち、身を投じたわけです。
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崖のギリギリに立って、下を覗き込んでみたんですが、落ちたら確実に死ぬだろうという場所でした。
実際そういう場所なんですけど、コレは、マジで、あかんと思いました。

あんなとこに立っていいのは船越英一郎か片平なぎさくらいです。


ガマには二箇所行きました。
(ガマというのは、洞窟のことで、地形や自然環境などにより、沖縄にはたくさんの洞窟があるそうです。それを、防空壕として利用していました。)

ひとつは「チビチリガマ」。
アメリカ兵がやって来て、「出て来なさい」出てくれば危害は加えないと言いました。
しかし、英語もわからず、恐怖に怯えた避難住民達の140人中83人が自決しました。
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そのすぐ近くには、別のガマがあり、同じようにアメリカ兵がやってきました。
けれど、そのガマの住民は生き延びることができました。英語のわかる人がいたのです。

と、ふたつめに訪れた「アブチラガマ」のガイドを務めるヤスダさんが教えてくれました。
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スピードラーニングをやっているかいないか、ただそれだけの違いで生き死にが別れたわけです。
("集団自決"については、"軍による強制"論と"住民の意志"論、意見が分かれているので、詳しくは各自調べてみてください)

アブチラガマは、全長270mもある巨大なもので、住民の避難場所と病院の分室として使われ、住民と600人以上の負傷兵で埋め尽くされていました。

その中に入るわけです。

そこの高い靴を履いていた私は、案内所で貸出ししているスニーカーに履き替え、ヘルメットをかぶり、懐中電灯を持ち、ヤスダさんの後に続きます。

電気はありません。真っ暗な洞窟を、湿って滑りやすい足元を、懐中電灯で照らしながら、恐る恐る進みます。

ここに、血まみれの負傷兵達がたくさんいたのだと想像すると、その呻き声が聞こえてくるみたいで、ビビりの私は、当然ビビりまくっていました。

そんな中、ヤスダさんは優しいトーンで解説してくださいますが、声色と裏腹に、その内容はとても壮絶で衝撃的なものでした。

ちょっと話がそれますが、ヤスダさんはあまり断定的な言い方をなさらずに、「どうだったのでしょうか。」「どんな気持ちだったのでしょうね。」と、最後は聞き手に考えてもらえるような話し方をされていました。

そういうところまで配慮されているんだなぁなんてことを思うことで怖さをごまかしているうちに、アブチラガマのすみの立入禁止区域(当時)に着きました。

脳傷や破傷風の患者(助かる見込みのない人)が寝かされていた場所です。

撤退命令が出た際、この灯りも無い場所に、たくさんの患者が置きざりにされたのだそうです。

「さあ、どれくらい暗かったのでしょうね。灯りを消してみませんか。」
お決まりなんでしょうが、ヤスダさんがいらぬ提案をもちかけました。
ただでさえ怖いのに、一斉に懐中電灯を消します。




カチッ・・・・・・




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おもわず楳図かずお風になってしまうほど怖いです。

一切光なんてありません。そんな中、ヤスダさんは続けます。
「自力ではどうすることもできない人達が残されました。でも、生きたい!生きたい!外へ出たい!そうもがいた手の跡が、壁に残っているそうです。」




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そこから反対側に進み、今度は、立入禁止区域とは別の「ひめゆり立入禁止区域」とされた場所に案内されました。

そこで、ヤスダさんは、日比野さんという方の体験談を教えてくださいました。

日比野さんは、別のガマを追い出され、やっとのことでアブチラガマにたどり着いた負傷兵で、状態は悪く、寝たきりでした。

そして、撤退命令の際に置き去りにされた一人でした。
死ぬ前にせめて水が飲みたいと願っても、誰も手を貸してくれる人もおらず、どうすることもできません。

ある日、アメリカ軍がアブチラガマを攻撃(出入り口や空気孔から、ガソリンの入ったドラム缶や黄燐弾などを投げ込む等)しました。

爆発により、日比野さんは吹き飛ばされてしまったのですが、不幸中の幸い、そこは、ガマを流れる水路で、日比野さんは、念願の水を飲むことができました。

水をくれ水をくれ、自分が元いた場所には、少し前の自分と同じように水を欲している負傷兵達がいました。

日比野さんは、彼らに水を運んでやることにしました。
日比野さんはボロボロの身体を這わせて水を運んでやります。一日かけて、たったコップ一杯の水を運ぶことしかできなかったそうです。

その水路の上流には、たくさんの死骸が横たわっていたし、爆発の名残りで、現在でも洞窟内が真っ黒になっていましたから、水も濁っていたと思います。

アブチラガマには、その時、150人もの人がいたとされています。そのうち、助かったのは、日比野さんを含めたったの7人だそうです。

沖縄で戦争を体験した方は、当時のことを語りたがらないと聞きました。それだけ地獄のような日々だったのだと思います。
「だから、おじいやおばあが戦争のことを語る時は、余程の覚悟だから、それを理解してほしい」と、ゲストハウス"月と海"を営む古堅さんにも言われました。

日比野さんは、2年程前に亡くなられたそうです。生前は、生き残った者の使命として、体験談を語る活動をされてきました。その本や資料は、この案内所などで購入できます。

と、最後にうまく宣伝をかますヤスダさんと、案内所に戻ってからも色々とお話をさせてもらいました。
ヤスダさんの下瞼に涙が溜まっていくのに気づいた時には、私もヤスダさんと同じ状態でした。
二人がそれをこぼさないうちにお礼を言って、私はアブチラガマを離れました。

アブチラガマに入ってからは約1時間、暗闇の中にいて、やっとこ外に出た私は、陽射しに目がくらみました。外の空気を思い切り吸って、とても安心しました。

太陽があって、空気を吸って、それだけのことを嬉しいと感じました。たった1時間、ガマにいただけでです。

「約700人の人達は、どんな気持ちだったのでしょう。」


そのあとは、ひめゆりの塔と、資料館へ行きました。
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【証言】というコーナーに並べられたファイルには、ひめゆり達の体験談が綴られていて、ハッキリ言って、どんな残酷な映画より残酷な話ばかりでした。
時間が足らなくて、資料館をゆっくり見て回ることができなかったのですが、ガイドブックにすべて記載されているようなので、買って帰りました。

家に帰って半分読みましたが、"20歳程の乙女達が、アメリカ兵に殺されるくらいなら自決しようと呼びかけ、自分じゃとても出来ないから、先に殺してと頼み、友達同士で殺し合う"だとか、
"負傷したひめゆりが、私はもうダメだから、私に使う薬は、兵隊さんのために使ってねと死んでいく"だとか、信じられないような話ばかりです。

私が20歳の頃なんて、なんでも独りで出来るような気になって、でもなんも出来なくて悶々として、クソみたいな毎日でクソみたいな人間でした。本当、てか、今だってわりとクソです。

(いい奴だけど)

私がその頃を生きてたらどうするのかなー、それすら想像つきませんが、その時はひとまず、実家に帰ります。帰ってお母さんといたいです。


と、やっぱりいい話をしちゃったんで、最後に書いときます。
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ちんこちんちーん