「最期まで親不孝でごめんなさい・・・」

先日。私の父が急逝しました。まだ62歳。私が描いていた未来予想図より、20数年、短い突然の死でした。至って健康で、この数年。いろいろ怪我の手術はしていたもののいたって内臓系は健康以上に健康体だった父。本人も不注意でこんなに早い死を迎えるとは思いもよらなかったでしょう。一番、理解出来ていないかもしれません。

父が亡くなったと思われるその時間。ちょうど、私は滅多にみない時計をみていました。そしてその8分後にも。その時点で「なにか」を感じてたのかもしれません。大好きな祖父のときにはその「とき」をしることができましたがここ最近、出産してから少しそういう能力に鈍りがあり、すっかり「その感覚」を忘れていました。その日、トイレトレーニングもあって公園で息子を抱え何度もトイレに連れて駆け込んでいたので、携帯はほとんどみませんでした。

そして・・・既に実家に着いた弟からの電話で知った・・・突然の父の死。はじめ冗談だろうと思っていました。なにかの悪い冗談だろうと。。。しかし、弟の言葉の間で・・・それが事実なんだと悟ったとたん、体中の力が抜けました。私はちょうど、公園帰りのRYOにおやつを食べさせている時で・・・「おしっこ!トイレ行く」というRYOのことが完全に頭に入らず、電話をきったときには外で初めてお漏らしをしていました。そのびしょぬれのRYOを抱きかかえ、自分もびしょびしょになりながら急ぎ家に帰りました。

そして・・・旦那さんに電話しました。そのときは父の死を言えませんでした。認めたくない・・・その想いで必死に急用があるのでRYOをどうにか預かって欲しいとそのことだけを伝えました。そのとき、旦那さんはなにか重大なことが奥さんの実家にあったに違いないと思ったそうですがまさか父の死とおもっていなかったそうです。結局、旦那さんのお義父さんが急ぎ迎えに来てくれました。けれど待っている間。それまでなにがなんだかわからず涙もでなかった私が、RYOを抱きしめて泣き崩れました。悲しいとかなんとかではない・・・なんともいえない感情。RYOは初めて見る母親の号泣にとまどいながらも「お母さん、どうしたの?いたいの?」と頭をずっとなでていてくれました。

そうして一人乗った新幹線。こんなにも新幹線が遅く感じたことはありません。目にうつる景色も・・・色がなくて。それと同時に、今度は悔しさの感情で涙が止まらなくなりました。“なんでこんな早く逝っちゃうの”と。相当自分勝手な父だけど、ここまで勝手とは。

そして実家へ着くと泣きはらした目の母が。一番心配だった母の事。「お母さん、大丈夫?」・・・そういうのが精一杯でした。そして和室にはもう冷たくなった父が横たわっていました。泣くまい・・・と決めていたのに大声で泣いてしまいました。なんでこんなに早く・・・。この1~2年。父と私の間でいろいろあり、気が強すぎて激高型の私は父を許す事ができず、まともに会話をしませんでした。なんで私は許せなかったのか・・・なんでもっと優しい言葉をかけられなかったのか。わかろうとしてあげられなかったのか・・・。そして父もなんでわかろうとしてくれなかったのか。もう悔いても悔いても悔いきれないくらいの思いが涙となってとめどなく流れました。いつまでも・・・。

そんななか。弟と母はいろいろなことを葬儀屋などの手配・・・いろいろしていましたがそれすら支えられない情けない私。斎場の都合もあり、あっけなく父は荼毘にふされました。RYOと甥っ子は通夜にきたのですが・・・小学生になったばかりの甥っ子は、本当にあかちゃんの頃からおじいちゃんと遊んだ事もありもう号泣でした。きっと一番精神的にショックかもしれません、「死」と向き合ったのは人生初めてなのだから。RYOは、「なんでおじいちゃん、いたいいたいなの?なんでお話できないの?りょうちゃんがいい子いい子してなおしてあげる。そしたらおっきするよ」と泣きこそしませんが、ただならぬ雰囲気を2歳児なりに感じていたようでした。

最期のお別れのとき。父の好きだった食べ物やたばこと一緒に・・・私は父へ手紙を書きました。スケジュール帳のメモ帳ですが・・・そのままもう届かないかもしれないけど・・・いえなかった思い。
 
お父さんへ
ここ何年もちゃんと向き合ってあげられず、話すらまともにきいてあげられず本当にごめんね。
まさかこんなに早く逝ってしまうとはいなかった。なんで●●(甥っ子)やRYOの成長した姿を見届けられなかったの?なにより、なんでお母さんと楽しい老後を送れなかったの?・・・・(略)・・・
沢山言いたい事ばかりで書ききれないよ。
娘として花嫁姿も見せられず、仕事も中断、夢途中の形で・・・それが本当に悔やまれてありません。
だだ産まれてから社会人になるまで育ててくれて本当にありがとう。親になって初めてその苦労がわかるよ。・・・(略)・・・
お母さんのことは●●(弟)、私で全力で守ります。心配しないで空から見守っていてください。
最期に本当にありがとう。そしてお母さんに一言あやまっていってね。


そしてRYOは絵を描いて棺に一緒にいれました。「これじじだよ」と。

甥っ子はじじへの手紙を書いていました。そして、通夜の夜。RYOと私、甥っ子と並んで寝ながら、おじいちゃんの思い出を語りました。おじいちゃんがどんなに2人を可愛がったのか。RYOは覚えていられるかわからないけど、絶対忘れさせない。甥っ子は絶対忘れないと思う。

そして・・・棺を閉めるときに「最期まで親不孝でごめんなさい」と絶叫しました。本当に・・・娘として花嫁姿をみせられなかったこと、本当に悔やんでも悔やみきれない。今年、どこかでせめて式だけでも親と自分たちでと思った事もあったけど、思うようにすすまないダイエットで断念しかけたなさけない娘。なんの親孝行らしいこともできないまま父は逝ってしまいました。

弟が挨拶をしました。こんなにも気丈で・・・本当に立派になったんだと弟の成長を改めて思ったとともに、この一言で泣きくずれました。「・・・私の人生にプラスになる本当に素晴らしい父親でした」と。まるで両親と似ていない私と違い、弟は父と母、両方に本当に似ていて、今回、父がそこにいるような気さえしました。また葬儀にきた父の弟さんも・・あまりにも父に似ていてそれでまた胸が詰まりました。

亡くなるまでその存在の大きさに気がつかなかった自分。それにひきかえ、もともと気配りの弟はことあるごとに父と母を楽しませることを精一杯していました。けれど、それでももっといろんなことが出来たのではと真面目がゆえに自分を責めていましたが・・・本当に父が弟を頼りにしていました。いつのまにか家長の意識を強くもってそのような行動をしていました。

父の死で・・・後悔しない人生を送ろう。少しでも悔いのない人生を送ろう。「今この瞬間」を大事に生きよう。したいと思う事は先延ばしにするのはやめよう。残された母を全力で守ろう。
いろいろ思う事ばかりの・・・人生で一番長く感じるこの数日間でした。

一番心配しているのは・・・母のこと。見送りにホームまできてくれた母を見て、私が涙ボロボロでした。どうやって一人の夜を、孤独をたえるのだろう。いくら強い母でも・・・もうこっちが耐えられなくてずっと東京まで泣いてしまいました。家族がどうやって父の死を乗り越えるか・・・まだ想像はつきませんが、これから頑張っていきます。日常を一日一日精一杯生きる事がこのなんともいえない感情を乗り越えられる突破口だと信じているので。悔いのない人生を、父の分まで生き抜きたい・・・。

お坊さんが・・・甥っ子とRYO、弟と私を見て「お父さんの命のバトンはつながってるね」といった言葉。本当に・・・私達の血にはまぎれもなく父の血がDNAが継がれている。きっとみんなが活き活き父の分まで生きること。それが父の最期の望みだと信じたいです。